悲しい知らせが届きました。

マツタケ博士吉村文彦先生のご逝去のお知らせが奥様の智恵子さまから届いたのです。

吉村先生についてはこのブログで何度か紹介したが、

そのご生涯はまさにマツタケの研究とその魅力の探究に尽きるご活躍であった。

この写真は平成17年の10月に岩手県立大野高校のマツタケ収穫祭で採れたマツタケを手に喜ばれる博士の雄姿である。

吉村博士は大野高校のマツタケ山つくりの際、小沢一男氏と共にその実現に大きく貢献して頂いたのである。

↑ マツタケ収穫の際、大野高校生と共に微笑む吉村博士

吉村先生の事はこのブログでも何度か紹介したが改めてその記事を再現してみます。

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 吉村先生は京都大学の農学部で粘菌類の研究を続けていたが、最終的テーマは地球規模の生物同士の共生の探究であった。特に熱帯雨林で多くの鳥類や植物、昆虫がその一斉開花の瞬間に見せる驚異的な共生の姿を研究する井上民二という後輩など多くの研究者とネットワークを作っておられたのである。そして吉村先生の担当は粘菌類マツタケと赤松の共生がそのテーマであったのである。彼は京都の同志社女子大学で助教授として研究を続けていたが、ある年、学会でマツタケと赤松の共生について発表し最後にこう述べたという。

①マツタケは赤松林の環境を整えてやりさえすれば、その発生が限りなく可能になること。

②松くい虫などに蝕まれている西日本では、今後マツタケの発生が悲観的であること。

③マツタケの主産地が広島や京都であった時代は終わり、これからは東北地方、特に広大な森林地帯を抱える岩手県がその主産地になるであろう。・・

 その学会が終わって、間もないある日、博士の研究室を一人の男性が訪れたという。

差し出された名刺には「岩手県岩泉町林業水産課長高橋房雄」とあった。

彼は単刀直入に「あの学会で先生のご発表を拝聴した後、すぐ町に帰って、町長を始め役場のみんなに相談しました。ふるさと創生資金を使って「松茸研究所を作ります。先生をぜひ、所長としてお招きしたいのです」と話を切り出したというのです。さすがの吉村博士も、すぐには応じられない表情を見てその課長は次のような決め台詞を言ったのです。「先生はご自分の学問の成果を実践しない人ですか?」

岩手県の山奥にある田舎町の一課長のこの一言が博士の心を揺さぶり、ついに愛する奥様の知恵さんと共に北上山地のほぼ中央部に位置する岩泉町に赴任する決意をさせたのです。

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それから15年間、吉村博士は当時、日本のチベットと言われた北上山地の山奥で多くの貢献をされたのである。

博士が一番最初にした仕事は岩泉産マツタケのブランド化であった。

それまでどんなに立派なマツタケが岩泉で採れても「庭先買い」という他県からのプロの業者がマツタケ採りの名人の庭先にやってきてそれを廉価で買い取り、全国の販売業者に発送していたのである。そして岩泉産のマツタケは京都や広島産のものとして販売されたのである。吉村博士はこうしたマーケティングのシステムをよくご承知であった。

博士はこうした「庭先買い」をさせないように訴え、町民もこれに賛同し、岩泉の素晴らしい松茸が初めて認知されたのである。

博士はNHKの「ためしてガッテン」の番組や民放の「グルメ番組」にも出演し岩泉「のマツタケの紹介につとめられた。

その結果、盛岡駅前の有名な八百屋の店頭のマツタケは殆んどが岩泉産になったのである。

さて

・・・・日本全国すべての市町村に1億円が支給され、その使途は問わないという事であったので誠に珍案が各地で広げられた。その例として「宝くじを1億円分購入してその前後賞を狙う」「温泉を掘り当てる資金にする」・・・など珍例が多くの話題をさらった記憶がある。

 こうした中で、岩泉町が竹下内閣が行った「ふるさと創生資金1億円」をこのマツタケ研究所の創設、そしてそのために吉村博士を招いたことは信じられない程の優れたものであった。

後に自治省(当時)が各自治体におけるこの資金の使い方を検証し、優れた使い方をした自治体に副賞として更に3億円を贈ったことはあまり知られていないと思うが、岩泉町のこのプロジェクトが最初にあげられたのである。

これは吉村博士から直接お聞きしたので間違いはありません。

吉村博士は岩泉のマツタケ研究所で15年間ご活躍の後京都に戻られ、「松茸十字軍」を始められ、多くの賛同者と共に17年にわたって京都でもマツタケ山復活の活動を続けて来られました。昨年の11月の現地のマツタケ集会にも苦しい体調の中、山の斜面を這いながら登って現地に到着されたという話を智恵子奥様から伺い、感無量の思いでした。

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