親友hamaさんに最高のアドバイスをいただいたので南米の旅の写真入りを投稿できました。只々感謝します。盛岡にいる次男もこの記事を見て大変興味尾を持ってくれたので嬉しい限りです。

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パンアメリカン・ハイウエイ踏査  パート-1南米編

南米縦断バスの旅7500k ①ペルー

テーマ:インカ文明を訪ねて

 

2012年、私たち夫婦のパンアメリカン・ハイウエイ踏査の旅はペルーから始まりました。

@旅の動機

中国古典で謂う「小人閑居為不善(小人は閑居して不善をなす)これに対をなす詩文をご存じでしょうか?曰く「大人閑居養高志(大人は閑居して高志を養う」。「あさジョグ、よる飲む」という悠々自適の日々をおくっていると限りなく前者に近いさながら小人の見本みたいな人生にへばりつくことになってしまいそうです。

そこで、一念発起して、あと10年で迎える喜寿までに「地球を縦に踏査するグレートジャーニー」に出かけてみることにしました。それはまさに「6万年前にアフリカを離れ世界へ広がり始めた人類が、アメリカ大陸の南端に至ったグレートジャーニー」の半分を辿る旅となりましょう。まあ、大人のかけらに迫るにはこのくらいのスケールで臨まないと.と、意気込みだけはせめて高志.。それはモンゴロイドのDNEを追う、それはさまざまな異文化とそれを担う人々と出合う、それは興味の赴くままにルート上のホットスポットを放浪する……という3つのテーマを掲げたグレートジャーニーになることでしょう。

 

 アラスカのフェアバンクスからアルゼンティンのウシュアイアに至るパンアメリカン・ハイウエイ、これが現代版グレートジャーニーのメイン・ルートになります。

 

砂漠地帯を走るパンアメリカン・ハイウエイ

この路、1923年の米州国際会議で示された構想に沿い、1940から50年代にかけてその整備が大幅に進展しました。が、いまだパナマとコロンビアの間にあるダリエン地峡一帯には、約87kmに渡り未開通の部分が残されまま今日に至っています。なぜ?そこはゲリラや麻薬密売の拠点として中南米で最も危険地帯と名を馳せていて、軍隊の護衛があったとしても安全が保障できない、未開の地だからです。

パッチワーク方式とし気のもむくままに放浪する」がルート設定の基本です。4年弱

のマンハッタン赴任で馴染みのある北米地域は、懐かしのセンチメンタル・ジャーニーということで後回し、まずは気力と体力が必要な南米地域から。というわけで、2012の秋、グレートジャーニーをペルーからスタートさせました。移動手段はレンタカーか、昼間運行の二階立て長距離バスのフロントポジションとしました。

 

@旅程-1インカ遺跡を巡る旅

9/14 : RIMA 14:00-(21h)-9/15 ;11:00 CUZCO --taxi--PIZAQ

9/17  Taxi---VALLE SAGRADO DE LOS INCAS/インカの聖なる谷

9/18 Tren---MACHU PICCHU遺跡  

9/22CUZCO 7:00-(10h)-17:00  PUNO / TITICACA

9/25 : PUNO 15:00-(5h)-21:00 AREQUIPA

かねてから、スペインに攻め落とされ、略奪され、エンコミエンダ(*1)で搾取され続けて

きたインディオの素顔をポートレートに映し込めたいという願望があり、モンゴロイドのDNEを秘めるインディオ、インカ文化を担ったインディオとの出会い、これが今回のテーマでした。

となると。。。インカの聖なる谷、マチュピチュはずせません。。。ということで、パンア

メリカン・ハイウエイをナスカではずれ、クスコ--プノーアレキパに至る、標高4,300mに達するアンデス山岳ルートを長距離バスで乗り継ぐ1,000kmのよりみちの旅となりました。

このルートで印象に強く残ったのはインカの聖なる谷にある小さなインディオの部落ピサックでした。それは、村の大きな広場で開催されているフリーマーケットで出会ったインディヘナの人たち(写真下))の表情です。

革命家チェ・ゲバラ曰く「打ち負かされた民族。目つきはおとなしそうで、ほとんど怖気付いているような、外界に対して完全に無関心な目つきだ。生きるということが取り払うことのできない習慣のなかで生きているかのように見える(モーターサイクル南米旅行日記・チェ・ゲバラ著/棚橋加奈江訳・現代企画室発行・2004/4刷)。。。。という彼の言葉をふと思い出し、考えてしまいました。。。彼はいつたいどちらの立場での語っているのか?。。。打ち負かした白人の立場からなのか? あるいはその逆、インディヘナの視点からなのか?と。

 

ご存じかもしれませんがチェの出身地アルゼンティン、98%が白人及びモレノ(浅黒い肌をした黒人と白人の混血)で占められていて、十数種族に及ぶアボリヘン(先住民族)やインディヘナはほとんど残っていません。「虐殺されたのか?」何人かのアルゼンティーナに質問したことがありますが….口を濁します。真相は。。。征服者である白人/スペイン人  に抵抗したペルー、アルゼンチン、ウルグアイのインディヘナはすべて虐殺され、無抵抗であったパラグアイ、ボリビア、ペルーでは生き残ることができた。。。といわれています。

最初のインディオの大統領であるペルーのアルハンドロ・トレドやボリビアのモラレスに代表されるインディヘニスモ( Indigenismo /西語、インディオの復権運動)に対し、アルゼンチン出身のチェがどういうスタンスであったのか?興味はつきません。