遠野のマヨヒガの項についてネットで感銘を受けた優れた論考があったので
これを抜粋して紹介したい。
この考察を見て、民俗学の何たるか、また柳田国男が提起した画期的な視点を受け継ぎ、
それを発展させていこうとする人々が続いていることを知って感銘を受けた。
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遠野物語」を読んで遠野に来る人の中で、一番の人気がこのマヨヒガの話である。この場所に行きたいとの声を多く聞くのも、やはり遠野らしい幻想的なイメージを強調する話であろうと思う。実際に、このマヨヒガの地は頻繁に霧が発生する為、マヨヒガの伝説が作られ易かったのだと思える。特に夏近くになると、海上で発生した濃霧が遠野の東側の山を覆う場合が多く、昼間でも濃霧に覆われマヨヒガの情景を頻繁
に体験できる。
マヨヒガとして前回記載した「遠野物語63」は
主人公が魯鈍か頭の足りない人であるという事がポイントである。
この感覚は、座敷ワラシにも通じるところがある。
遠野だけでは無いだろうが、頭の足りない子は幸福を呼ぶとされ、
大事に育てる旨が伝わっている。
知的障害者とは、通常の人間が持っていないものを持っていると
考えられたのかもしれない。
それが能力であるのか、それとも神に近い存在として祀り上げられたのかは
断定しかねるが、
足りないものとは、別の何かが補足されているのだという意識があれば、
それが座敷ワラシであり、マヨヒガの話に通じるのかもしれない。
一方、「遠野物語64」の話しは次のようなものである・
金沢村(かねさわむら)は白望(しろみ)の麓、上閉伊郡の内のなかでもとくに山奥で、人の往来も少ない。六
、七年前にこの村から栃内村の山崎なる某かが家に娘の婿を取った。
この婿は実家に行こうとして山路に迷い、またこのマヨイガに行き当った。
家のようす、牛馬雛が多いこと、花の紅白に咲いたりしていたことなど、すべて前の話の通りである。
同じく玄関に入ってみると、膳椀が取り出されている部屋がある。
座敷に鉄瓶の湯が沸騰していて、今まさにお茶を煮ようとするところに見え、便所などのあたりに人が立っているように思われた。
茫然として後になってだんだん恐ろしくなり、引き返してついに小国の村里に出てきた。
小国ではこの話を聞いて本当だと思う者もいなかったが、山崎の方では、それはマヨイガだろう、行って膳椀の類を持って来れば長者になれるといって、
婿殿を先に立てて多くの人がこれを求めて山の奥に入り、
ここに門があったというところに来たけれども、
眼に見えるものはなく空しく帰り来ってきた。
その婿が最終的に金持になったという話も聞かない。
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「 63」「64」を統合して、『遠野物語』の「マヨヒガ」には
「隣の 爺」型の昔話と同じ構造が見られる。
すなわち 『遠野物語』の「マヨヒガ」は、
「63」では三浦の妻が無欲であるが 故に富を手にすることができたが、
「64」は村人とともに宝を手に入れよう と欲をもって近づこうとしたため
失敗してしまったという構造をもっている。
「鼠浄土」ゃ「花咲か爺」のような富を得る正直な爺と
それを 真似て失敗する欲ばりな隣の爺の昔話との共通点を見出すのである 。
「隣の爺」型の昔話の主題は後半の失敗する隣の爺にあり、
語り手や 聞き手は隣の爺に共感して、
成功する爺のようになりたいという上昇願望を抱 きながら
現 実は隣の爺のように甘くはないという悲痛な叫びが昔話の笑いに包 まれて語りこまれている。
そうした象徴的な構 造を「遠野物語』の「マヨヒガ」にも重ねて、
「63」のように幸運に巡り合 うことを期待する上昇願望と、
それでも「64」のように幸運とは掴みがたい ものであると理解する現実観という
村落民の心意が表れており、村落民にとっ てより確かな存在なのは後者の失敗語である。
それゆえよけいに異郷に対する 憧れは増幅していくののだ。
引用ばかりでごめんなさい。
でも、このマヨヒガは桃源郷とはまた別に
遠野物語にしか登場していない世界であることを初めて知ったことは大収穫であった。