前回のかわいい「二十四の瞳の子供達」と出会った陸中海岸青少年の家での話である。

 この施設に勤務して3年目の平成7年1月17日に阪神淡路大震災が起きた。宝塚市の近くに二番目の姉が住んでいたので大変心配したが無事を確認出来て、ホットした思いであった。 

 その後、現地での被害状況が生々しく報道されていたが、地震発生後10日目位に一人の人物が私達の施設を訪ねてきた。彼はかつて、この施設でボイラーマンをしていたOBであった。  

 彼は我々職員にぜひ話したいことがあると言って話を始めた。彼は今度の大震災の被害を知って昔からの大事な女性の安否が気になってすぐ現地に駆け付けたという。

 その女性は多分彼の若き日の憧憬の人であったのだろう。

 今はあの有名な芦屋に住んでいたのだが彼はやっとの思いで彼女の住む住所に辿り着いたという。幸いにも目指す相手の女性は無事であったが彼女の住む家は倒壊して寒空に震えていたという。お互いの再会と無事を喜び合いながら、彼は彼女にこう尋ねた。

 「今、一番してほしい事は何ですか?」即座に彼女はこう答えた。「温かいご飯が食べたい・・・」この震災は真冬の1月に発生したので救援物資の食料はおにぎりが中心であった。

 しかし、厳寒期のこの時期なのでおにぎりはすっかり冷たくなってとても喉を通るものではなかったという。「しまった!コメを背負ってくればよかった!・・・」彼は地団太を踏んで悔しがった。するとその様子を見て彼女は意外なことを言ったのである。「アラ・・お米ならあるわよ!」 彼女の住むあたりは地震によって住宅などの建物は殆んど倒壊したが、幸いにして火事にはならずにいたのである。

その為に崩れた家の台所の米びつの中にはお米がしっかり残っていたのである。そのおじさんは昔日の青年となって彼女のためにご飯を炊き始めた・・。何のことはない!台所の跡からはひしゃげた鍋やそのフタもあったし、燃料は瓦礫の中に無尽蔵にあったのである。肝心の水は給水車が毎日運んでくれていて十分だった。愛煙家の彼は持っていたライターで着火してご飯を炊き始めた。~はじめ、ちょろちょろ、中ぱっぱ~赤子泣くとも蓋とるな~しばらくするとご飯を炊く香ばしい匂いがあたり一面に広がった・・。

 「なになに・・あら、いい匂い・・」「とてもおいしそう・・」近所の奥様達が口々にそういい合いながら近寄ってきた。昔の青年は彼女の了解のもとでそのご飯を集まってきた一人一人に分けてあげた。「美味しい!」「こんな温かいご飯を食べれて幸せだわ!」

 高級住宅地 芦屋に住む婦人たちは口々にそう言いながらおいしそうにご飯を一口ずつ食べてくれたという。

最後に彼の憧れの人だった女性がこう言ったという。

 「お米ってこうして炊くのだったのね・・・・

 彼は岩手県大槌町(この施設から10分ほどの町)の住民だった。彼は故郷に帰るとその足で大槌町の役場に行き、町長と直接、会ってあることを頼んできたという。「隣の陸中海岸青少年の家では毎年小学生に飯盒炊飯などの貴重な訓練をしている。」「今回の関西の大震災はとても他人事とは思えない。不時に備えて子供たちにそうした訓練をさせることは極めて重要である。」「だからその施設に対してはわが町としてもできる限りの援助をしてほしい!}

 大槌町長はその話をじっと聞き入り、彼と握手しながら「絶対、ご支援します」と誓ったという。

・・・・・それから16年後・・あの東日本大震災の津波が大槌町を襲い、町長を始め多くの職員が犠牲になったことはいま、思い出しても悲しい限りである・・・。大槌湾の蓬莱島

  (井上ひさしの「ひょっこりひょうたん島」のモデル