今日、hospitalから帰還したのでこのブログを再開します。私が岩手県沿岸の、その名も陸中海岸青少年の家という施設に勤めていた時の話しである。前回の「栗拾いの話」はその次の職場での話しです。山の中腹にあるその施設を尾根伝いに登ったところに鯨山という標高600メートルほどの山があり、その頂上からは青く輝く太平洋がその雄大な姿を見せる絶景の場所であった。

 この施設に研修に来る多くの小学校は体力作りとしてその山の登山をスケジュールにいれていた。ある時担当した小学生(5年生)はハマさんの故郷の山田湾の大沢地区の対岸にある小学校だった。参加した全員の数が12人というかわいい集団であった。しかし、小学生の足では鯨山の頂上までは2時間ほどかかるのである。先導する私たち職員は先ず、子供たちの中でちょっと太めで体力のなさそうな子を先頭に立ててその子のペースで登山を進め、結果的に全員が登頂できる事を目指したのである。一歩一歩その山道を登って行ったが先頭の子も歯を食いしばって頑張っていた。さて、赤松(岩手県の県木でこの下にあのマツタケが生える)が生い茂るその山道の途中にちょっとした岩場があった。実はそこにはあの恐ろしいが待っているのである。その岩場の十メートルほど前で子供たちを休憩させて、私はその岩場に行って小石を一杯投げつけてその蛇を追い払って再び子供たちの隊列を安全に先導したのである。これはこの登山のマニュアルであった。さて、その恐ろしい難所を過ぎても何か所もの急坂が続き、くじけそうになる子どもたちを励まして登山は続いた。最後の鎖(チェーン)でよじ登る難所を乗り越え、ついに鯨山の頂上に全員登頂した、まずは全員で万歳をして持参したおにぎりと少々のおかずの昼食となる・・。さて、全員が食べ終わったところで私は彼らに一つの提案をした。その頂上には鯨山を祀る祠があり中には十数人が入れる空間があった。 

 私は怖い話をしてあげると言って全員をその中に誘い入れ、祠の扉を閉めた。

 すると、祠の中は真っ暗闇の世界となった。・・・・ここからこわ~いお話しである・・・。

 私は小泉八雲の「怪談」から「幽霊滝の伝説」を話し始めた。・・・・・・・

~ 昔、ある村の女たちは夜になると麻取り場という小屋で麻の糸を紡いでいた。その仕事は単純で退屈であったので女たちは気を紛らわすために次々と怪談話を始めた。だが、話が尽きそうになった時、一人の女がこんな提案をした。「ねえ、誰かあの幽霊滝に行ってくる人はいない?そんな勇気がある人には私は今日とった麻を全部上げるよ・・」そんな気味の悪い話に誰もがしんとしていたが次々と「私もあげる」「私も・・」と続いた。すると一人の女が立ち上がって「私が行く!」と言ったのである。「でも、行ってきた証拠はどうするの?」するとあそこの賽銭箱を持ってくればいい」と誰かが言った。「それを持ってきたら、必ず今日とった麻をくれるのね?」 一同は全員同意した。オカネというその女は2歳になる赤子を背負ったまま、夜の闇に飛びだして行った。一心に夜道を辿ってオカネはついに白い滝の水が流れ落ちる幽霊滝に着いた。滝口にある賽銭箱にオカネが恐る恐る、手を伸ばしたその時、不気味な声がした。

 「おい オカネ!」 ・・・オカネは恐怖に震えたがどうしてもみんなとの約束を守りたかった。目をつぶってその賽銭箱を掴もうとした。その時また「おい オカネ!」という恐ろしい声が聞こえた。しかし、おカネは度胸のある女だった。賽銭箱を掴んだまま、後も見ず、幽霊滝を後にして一目散に皆の待つ小屋に向かった。ドンドンドンと小屋の入り口を叩くと中の女たちはびっくりしたり、呆れた顔で中に入れてくれた。

 女たちは「あんたは凄い度胸のある女」だね」と口々に言った。 

 一人の老女が「こんな寒い晩だ。さぞ坊やは寒かったろうね。さあ、降ろして暖めてあげよう」・・・こう言っておカネの背から赤ん坊を降ろした・・。

 その時「おや?濡れている・・あれ?、血だ!」と言った。

 オカネが驚いてねんねこを開いてみると・・・

  {あ!坊やの〇〇がない!!!」・・・・・・・・

 

 鯨山の祠では子供たちの「キャー、ワー」の絶叫と大混乱とが起こり、みんな一斉に真っ暗闇の祠から外へ飛び出した。

 でも逃げ遅れて一人だけなおも絶叫を挙げて叫んでいる人がいた。

 ・・・なんとそれは子供たちを引率してきた引率の女性教師であった・・・・・。

 この後・・・下山の時や施設に帰っても子供たちの興奮は収まらず、彼らは私に纏わりついて離れず、下山後も事務室に来て・・更に就寝前まで「もっと話をして欲しい」とせがまれたのである。高校生しか知らなかった私に小学生のこんなにも無邪気でかわいい姿は格別であった。彼らはその後も私の主催する事業に何度も積極的に参加してくれた・・・。

 私はこの12人の子供たちを心の中で「私の二十四の瞳」と名付けた。

 今でも私の心の底に温かく懐かしい思い出として深く刻まれている。