長屋王と菅原道真 | 久蔵

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落語と歴史のブログ

原始期は特定の歴史上の人物は現われないが古代に入ってくると実在した有名人が増えてくる、と言ってもどんなことを成した人なのか記憶の中にも存在していないのが奈良時代の人々



古代の人々は「怨みを残して死んだ者の霊魂がこの世に災いをもたらす」と考え怨霊を恐れたという、しかし古事記や日本書紀には「怨霊」という語を見出すことはできないという

それは国家による編纂物に収録することが適切ではないとされたからだという、非業の死をとげた人が自身を陥れた人物に対して祟るという考え方は古くから存在していたとみられている

怨霊を恐れる動きは次の平安時代から顕著になるようだが奈良時代にも既に怨霊として現世に災いをもたらす存在とされていたことが当時の歴史書などから知られるという




奈良時代に怨みをもって亡くなった著名な人物に①長屋王②藤原広嗣③橘奈良麻呂④淳仁天皇などがいるという

①長屋王は天武天皇の孫で奈良時代前期の政治を主導したが天皇の臣下の藤原家の藤原四子による策謀によって自殺に追い込まれた

②藤原広嗣は藤原四子の一人、藤原宇合の子で橘諸兄政権で重用されていた吉備真備と玄昉の排除を訴えて九州で反乱を起こしたが敗れ非業の死をとげた


③橘奈良麻呂は橘諸兄の子で藤原仲麻呂(恵美押勝)を除こうとして反乱を企てたが未然に発覚し、奈良麻呂とその共謀者は処刑された

④淳仁天皇は道鏡と接近した孝謙太上天皇と対立し、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱ののち廃位されて淡路に流罪となった(淡路廃帝)

平安時代に入ると現在も名を馳せている⑤菅原道真がいる



菅原道真は藤原摂関時代の反主流ながら右大臣にまで昇り詰め宇多天皇に遣唐使廃止を建議した

宇多天皇(父は光孝:藤原摂関傀儡天皇)もめでた学識肌で重鎮の道真は若きエースの左大臣をはじめ藤原一族の不評を買って九州大宰府に左遷となった

天皇とて藤原勢力には勝てず道真を京の都に戻すことはできなかった、道真は大宰府の地で非業の死をとげた


以降は天皇の子の氏姓左大臣とて藤原勢力には及ばず藤原一族の摂政や関白が常に置かれるようになった、遣唐使は廃止され藤原摂関時代は王朝国風文化が全盛となる

道真の死後、道真失脚に関わった人々が相次いで亡くなったことや清涼殿への落雷などは怨霊の仕業ではないかと当時の平安京の人々を恐怖に陥れた

これらは後世も物語となっている、後に学問の神としても崇められ北野天満宮や太宰府天満宮に祀られこれらの神社は現在も多くの人々が参拝に訪れている

 


菅原道真は死後に名誉を完全に回復し贈正一位太政大臣の最高位の官位にまで昇格した、天満宮は日本中どこにもある神社で藤原家の誰よりも崇められた菅原道真が祀られることとなった