生前譲位 | 久蔵

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落語と歴史のブログ

平成の今の天皇が生前に譲位して上皇になるという、生前退位ではなく生前譲位だと想う

 

 

明治憲法で一天皇一元号という一世一元が定められた、大正を経て昭和の途中で終戦、新憲法にはそのような定めはなかったという

昭和晩年、元号法案が可決され一世一元が継承された、当時の官房長官のちの故小渕総理が昭和の次の元号を平成と宣言した

 

 

日本は世界唯一の元号を使用する国となった現在、天皇はいるが上皇なる者はいない、上皇が多く活躍したのは平安後期から鎌倉時代初期あたり

 

藤原一族ら臣下による摂関政治を廃除すべく天皇自らが親政する時期があった、摂政や関白など外戚が政治に関与する隙を与えないようにしたという

 

 

天皇の地位を早く後継者に譲位して上皇となり院庁で政治を行う院政が始まった、院庁は絶対的な権力を掌握して院独自の武力まで持つようになった

 

後白河上皇は最後まで頼朝に征夷大将軍を任命しなかった、その代わりより高い地位の右大将に叙任したという

 

頼朝は拒まず暫く任務を全うし官位を返上して公家のまま鎌倉で政治体制を構築したという、将軍ではないものの事実上政権を得ていった

 

後白河上皇崩御後に天皇に征夷大将軍に任ぜられようやく開幕したという、その年が日本国民ならみんな知っている1192年

 


鎌倉開幕の年というより後白河上皇崩御の年、上皇が長生きしたらそれだけ開幕は遅れた、頼朝の政務が遅れた訳ではなく

 

朝廷での征夷大将軍任命の叙任儀式の時期が上皇の寿命に依存したということになる、任命されてはじめて将軍となる、欧州皇帝の戴冠式のようなものか

 

朝廷の周辺の京都は武家で固めた、公家の法律である律令は尊重するも官位の叙任権を武家が制した、すでに地方守護地頭任命権は幕府にあった

 

 

やがて武力に勝る武家によって院庁は崩壊した、後鳥羽上皇による承久の乱によって武家に敗れ院政は終わった

 

以降幕府によって武家の棟梁である征夷大将軍が政治を行う新時代になった、征夷大将軍を任命する権限は天皇にあった

 

欧州貴族や諸侯の叙任権がローマ教皇にあるのか皇帝にあるのかカノッサの屈辱以来長く争ったようだがそのような権限か

 

 

秀吉は天皇の権威を最大限に利用し自ら太閤にまでなった、信長は天皇をも超えようとし秀吉が意志を継いだが大陸の覇者にはなれなかった

家康は法度でも公家を封じ武家優位の時代がつづくが幕末、上皇がからむ尊号一件でつまづき最終的には公武合体・大政奉還して武家の時代が終わった

 


天皇を残した大日本帝国憲法では宮中府中を分離した、内閣総理大臣の任命権は天皇としているが宮中は薩長藩閥の元老院で固めた

天皇の役割は古代からあまり変わらないことがわかる、常に天皇を中心に周辺の為政者が政治の実権を掌握してきた

大化の改新の藤原家から幕末の徳川家まで代々臣下為政者の血統は天皇家が絶えることなく継承してきた、ということもわかる

 

長い歴史の中で上皇は天皇を中心としながらも天皇家で政治の実権を握り親政するという骨のある稀な為政者だったこともわかる

 

簡易版ですべてをインプットする

 

日本国憲法の天皇は象徴として存在し、内閣総理大臣の任命権は天皇の国事行為となっている

 

上皇は一代限りの法案だというが、九百年前にあった院政が今後もあるかもしれないと危惧することもないだろうと想う

 

補足

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は摂関も院政も幕府も認めず平安期の醍醐天皇に倣い親政を敷いたが、独裁政治となり南北朝に分裂した

この頃の南朝にも北朝にも代々上皇がいて荘園領主を奪い合っていた、中世の土地制度が確立した

 

足利尊氏が擁立した北朝と対立したが室町幕府三代将軍義満が南北朝を統一して自ら太政大臣となって義持に将軍職を譲った

 



足利将軍家は公武を制し日本史上最高の栄華を築いた、その象徴が北山文化となるがその後没落していく義政の東山文化と対比される

応仁の乱から下剋上の戦国時代となり秀吉は公家の権威を最大限に利用し将軍にはならずに自ら関白や太政大臣や太閤となって天下を統一した

信長の野望は武家の棟梁でも公家のトップの太政大臣でもなかったという、天皇を超え朝貢国大陸の覇者となること

意志を継承した秀吉は無謀な試みで終わる、しかし所領不足から検地を徹底し中世の土地制度を破壊し地価という概念で全国統一した功績は大きい