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相楽音依のゆーちゅーぶろぐ!

無駄なことはひとつもない。過去を活かして情熱的に生きる!(・ω・*)中国語を勉強中で、中国語を使った日記動画をアップしています。

アニメ『昭和元禄落語心中』13話(最終回)を見ましたので

前回に引き続き、そのお話から!



今回のタイトルは13話のAパート最後の

有楽亭八雲の台詞。



「あたしの名は『有楽亭八雲』。

本当の名など、とうに忘れました。」




この台詞ひとつに、ここまで語られてきたものが

すべてつまっているように感じました。


特に、わたしが強く感じたのは、

八雲の生き様、八雲として生きていく覚悟、

それから『孤独』かな…。


その前の「結局あたしは独り」という

台詞の影響もあるのかもしれませんが…。


自分自身『孤独』を感じることもあるので、

自分の選んだ生き方を八雲に重ね、

勝手に感傷に浸らせてもらった感じもあります。

(ありがとう制作者さん…)


八雲の名を襲名して初めての寄席、

めでたい雰囲気のはずなのに、

八雲を見送る出囃子が

なんとも切なく聴こるような…ね。





『昭和元禄落語心中』

2期制作決定ということで、

おめでとうございます!!\(^o^)/ばんざーい!!


そりゃそうだよね!

あそこで終わらせるわけがないよね!!

って感じです!


わずか数年のオタク人生、

素晴らしい作品にたくさん出逢ってこれましたが、

こんなに深く登場人物に寄り添い、

ともに感じたいと思えるアニメはなかなかありません。


あ~~~

うれしいな~~~~(≧▽≦)


楽しみに待ちたいと思います!

(DVDは、たぶん、買うでしょう…たぶんね…笑)





ここからのブログは、本当に独り言!

読みやすさとか、長さとか、考えずにたらたら書いています。


楽しい内容ではないと思いますが

興味を持ってくださった方は、続きをどうぞm(_ _)m









さて、ここでもう一度タイトルに触れたいと思います。


「本当の名など、とうに忘れました。」




落語という世界がどんなところなのか

わたしにはまだわかりません。


八雲はときどき

「ヤクザな商売」なんて表現したりしていましたが…

感覚的にわかるような気はします。



ちょっと話がそれますが、

わたしね、自分の感想を述べるのに、

「それは違うんじゃないか」

という解釈の違う意見を受けることを

恐れている部分があると気づきました。


国語の現代文で解釈問題というものがありましたが、

それを解くときの緊張感に似ています。


自分はこうだ、と感じたけれど、

「本当にそうか?」

「だってこの文ではこう書かれているではないか?」

と、指摘されて、

自分の解釈の矛盾点などを挙げられてしまったら

もう何も言えなくなってしまう。


誰かの気持ちを読み取るときに、

勝手ながら、正解不正解よりも

自分の心がどう感じたかってことをまず大切にしたいのに、

それを否定されたようで、嫌なんでしょうね。


だけど、嫌だから自分の感じたことを言わないでいると、

心で何か感じ取っているはずなのに

自分でもそれがなんなのかわからなくなっていくようで、

それはとてももったいないことだと思うので

ヘンなところがあるかもしれないけど

恐れずに書きますね!!

(誰に向けての宣言なんだ…)




八雲は子どもの頃に

孤独な想いを抱えて八雲の家に弟子入りをし、

落語が好きだったからではなく、

自分が生きていくために、落語の世界に飛び込み、

自分の落語を探し続けてきた人です。


作中で八雲の本名は明かされていなかったと思いますが

(確か。言ってたらすみません)

それはきっと作品にとって意味のないことで

もしかしたら

明かさないことこそが、意味があることなのかもしれません。


助六を「しんさん」と呼ぶのに対し

助六は菊さんのことをずっと「坊」と呼んでいますしね。


芸者であるみよ吉の台詞にも

「お互いの本名も知らない」

というような台詞があったと思います。


菊さんがみよ吉の本名を知ったのは

助六が本名で呼んだことがきっかけになるのですが

そういう独白があったことも

『名前』というものが、この作品にとって

大きなキーワードなのかなと思い至りました。



落語という世界は、歌舞伎などもそうですが

「襲名」という名を引き継ぐ伝統がありますし、

菊比古がなかなか八雲の名を継ごうとしなかったことも

名を継ぐことの意味、

どれだけ「八雲」という名前が彼にとって大きかったのか

その裏にどんな思い、葛藤があったのか

見ているこちら側にも伝わる描き方だったと思います。




『名前』に関連して。


一週間前の水曜日、

『リップヴァンウィンクルの花嫁』

という岩井俊二監督の映画を見ました。


映画に対しての感想は割愛しますが、

綾野剛演じる胡散臭い男が

職業によって名前を使い分けている、

というような説明を主人公にします。


何でも屋としての自分の名前、

役者としての自分の名前、

他にもあると言っていました。


主人公は、おそらくひとつの名前、

生まれたときに名付けられた、

国に登録されている名前を主に使ってきたのだと思いますが、

名前を使い分けているという綾野剛の役に不信感を持ったところ、

「あなただってSNSでは別の名前を名乗っている」と言われ、

ちょっと納得した様子を見せました。




わたし自身、いくつもの名前、

いくつもの顔を持って生活しているひとりですが、

最初にそれを始めた理由は

「自分を守るため」でした。


国に登録されていて、法律で裁かれるのは

戸籍に載っている「名前」の自分。


その「名前」を使って何かあったときに

迷惑をかける人がいる。傷つけてしまう人がいる。


迷惑をかけることで、

傷つけてしまうことで、

いちばん苦しくなるのは「自分」だと思ったので

戸籍に載っている自分の名前は使わないと、

家を出たときに決めたのでした。


そんな風に決めなくてはならないのは

たいがい反社会的であったり

プライベート(それも、それ用に作られたもの)を晒して収入を得たり、

そういう生き方をしている人間なのではないでしょうか。


八雲の言う「ヤクザな商売」

自虐的な表現だなぁと思いますが、

かくいうわたしも、立派に(?)

「ヤクザな商売」で生きていると思います(笑)。


「何かある」かもしれないことを

やろうとしているのだから。

(今はもう、「やっている」ですが。。)



『リップヴァンウィンクルの花嫁』の主人公が

SNSで本名ではない名前を名乗っているのも

本名である自分が発信することで、

自分と発言がイコールで結ばれるとマズイ、と判断したからですよね。


マズイ、誰かがいるわけですよね。

知られたくない、誰かがいるわけですよね。


インターネットが普及したことにより、

本名を使わず、別の名前を名乗って発信することによって

その身を守ることができる時代。

同時に、その身を守りながら、誰かを傷つけることも。


みんなが、自分以外の自分になれる匿名の時代。世界。




どんな『名前』でも、その人はその人なのですが、

わたし自身は、『名前』に強く縛られ、

『名前』のおかげで、割り切って生きていられていると自覚しています。


その人格を演じるためにはわかりやすく『名前』が必要で、

その人格を演じることで、守れる自分がいる。

『名前』があるからこそ、生きていられる。


ときどき混乱するし、

孤独も感じるので

勝手なものですが(笑)。




『昭和元禄落語心中』の13話、ラストシーン、

与太郎が真打ちに昇進(内定)し、

「助六を継がせてほしい」と八雲に告げるところで終わりました。


そのことも『名前』に関連しており、

物語上も大きな意味がありますが、

わたしはそれまでのふたりの会話、



「もうすっかり『与太郎』じゃねぇか。

名前ってぇのは、馴染むもんだ」


「人間なんてのは

名前に合わせていくらでも変われますよ」



このあたりの台詞も

とても印象深かったです。


名前が人間に馴染むのか、

人間が名前に合わせて変わるのか…。


ふたりが言ってることって真逆ですよね。

真逆なのか、な…?(自信ない


ん~~~~深いところまで読み解けない自分の頭が

残念なところ!!!!!(>_<)



わたしの希望的観測ですが、

名前が変わろうと

立場が変わろうと

その人は『その人』なんだと。


根底にあるのはその部分で

八雲の孤独を、哀しみを、寂しさを、

与太郎が救ってくれたらいいな、なんて思ったり…。




時に。

わたしが、日常で「本当の名」

=「生まれたときに届けられた名前」を使うのは

国に関する届け出の際と、病院くらいなものです。

人柄はあまり関係ない、紙の上の、無機質で冷たいイメージ。


学校も、仕事場も、習い事も、出会いの場ですら

『ヤクザな商売』を考慮して

別の名前を名乗ってきたので

今となっては本名で呼ばれるのは、自分のことでないような…

そんな違和感があります。



時々考えるのです。

いま、とても仲良くしてくれている人たちが

またはお世話になっている方たちが

たとえばわたしのお葬式に来てくれたときに

会場に誰のお葬式かわかるように

立てかけられている看板の名前を見ても

ピーーンと来ないだろうな~って。


ちょっと寂しい気もしますね。

それと同時に、罪悪感も感じます。



あっ

お葬式じゃなくて、結婚式でもいいんですけど(笑)。

(自分の結婚式よりもお葬式の方が明確にイメージできるって…汗)



罪悪感というのは、

名前なんてほんとは関係ないくらい親しい間柄の人に、

隠し事をしているような気分というか…。

別の名前を名乗ることで、

そんなことはないのに壁を作っているように見える気がして…

そんな、罪悪感。


だからといって、

親しい間柄の人に本当の名を呼んでほしいか?というと

素直にうなずけません。


『ヤクザな商売』

(だんだん便利な表現になってきました)

をしている自分を知られてしまっているからかな。


出逢った時の名前で呼んでほしい。

めんどくせー奴です(笑)。



以前、わたしの名前が通り名だと知った方が

『皆が知らない本名を知っている』=『特別な間柄』だと思ったのか

おそらくは純粋な好意から、

「本名で呼びたいから、教えてほしい!」と言われたのですが、

誰があんたなんかに教えるか!って、イラッとしたこともありました(笑)。

それでその人を嫌いになったりはしませんが(;´∀`)

お願いだから踏み込まないでくれ~っていうのが正直なところ。


自分で思っている以上に『警戒』していて

信用しすぎないことが、自衛になっているのかな。


でも、『本当の名』でないからこその、居心地の良さがあるんですよ。

ネットで匿名を名乗るような。

のびのびと生きられる自分がいる。


本当の名を捨てたわけではない。

捨ててしまえる覚悟もない。

そもそも、捨てる必要はないのかもしれない。


ただ、

覚悟決めきれないまま『ヤクザな商売』に足を踏み入れ続け、

必要以上に『本当の名』を使うこと、明かすことは、

『ヤクザな商売』を続ける以上、

足を引っ張ることになるのではないかと危惧しています。

そんな自分に苛まれる。



それでもさ~、

わたしにとっての『本当の名』を呼ぶのは

今となっては生んでくれた両親くらいで、

それすら日常とは言えないくらいの頻度なのに、

その人たちが死んでしまったら

誰もその名で呼ばなくなるんだなぁ。



寂しいね。

ちょっと、寂しい。




『八雲』となった菊比古の台詞。



「本当の名など、とうに忘れました」




使わない。

呼ばれない。

自分の名を忘れるくらいに。


それってどんな『孤独』なんだろう。



舞台に向かう八雲の後ろ姿が甦ります…。







本当の名で呼んでくれる人が生きている間は、

その人たちが笑顔でいられるように接したい。

その人たちといっしょにいられる間は

本当の名を守っていてもいいのかな。



このブログを書くのに

『昭和元禄落語心中』13話、

もう一度見直してしまいました(笑)。


ほんと、いいアニメだったなぁ(・ω・*)




ここまでお付き合いくださった方がいらしたら、

お時間使って読んでいただき、ありがとうございます。


「長い!」っていうクレームは受け付けません(笑)。


このブログを書きながら、

自分を見つめて気が付いたことがあるけど、

それはまた今度にします。


このブログ書き始めてからもうすぐ4時間経つし(笑)。

寝ましゅまろ!

すやぴー☆(*^○^*)




ねいりー(・ω・*)