まったく人の趣向など、想像もできない変化をするものだ
とにかく、今私が毎日向かっている「万葉集」など
その始まりは、たんに「一ファン」としてのスタートだった
その頃は、万葉歌に、いろいろな訓み方があるなど知りもしないで
たまたま手にした一書を、あたかもそれが唯一無二の「万葉歌の訓」であるかのように思いこんでいた
素人には、古来からの「訓」を論ずる術もなく
しかも、それを解き明かそうなどとも思わず
偶然目にした、その「一書の訓」を通して、「万葉歌」に惹かれたものだ
そのうち、次第に原文がすべて漢字表記と知り
しかも、漢字の意を借りたり、音だけを借りたり、と非常にややこしくて
本気で取り掛かろうとは思わなかった
せめて、なるほど、こうした「訓」もあるのか、と感心する、その程度でも
自分としては充分だった
それが、最近になって、なぜこうも...
万葉集の校本と呼ばれるものには、いろいろな系統があり、
本来なら、たった一つのオリジナルなのに、それが現存せず
写本の繰り返しで現在に伝わる形なので、それも止むを得ない
幾度も繰り返される写本の過程で、誤字や誤写も多くあったことは想像できる
だから、古来から多くの研究者が校合を繰り返し重ね、出来るだけ「真」の姿を伝えようとする
しかし、それでも、その伝本の役を担う環境によっては
間違った「古写本」がすぐれた保存故に残り、本来の姿に近い「古写本」が散逸する可能性だってあるはずだ
今に伝わる、そうした諸々の校本もまた、ほとんどが全二十巻ではなく、その断片が多い
いかにしっかり保存して残し伝えていくか、の難しさを教えてくれる
その中でも、全二十巻の完本の姿で現存する「古写本」が、重宝がられるのも、当然のことだろう
だから、現在では、その最たるものとして、多くの「注釈書」が、
唯一と言っていいくらいの完本である「西本願寺本」を底本としている
しかし、若干の不足はありながらも、「元暦校本」や、
その他に、完本といえども、校合の面で評価の低い「紀州本」や「寛永版本」など
それほど、全巻揃っての伝本は少ない
しかし、本格的な注釈書の始まりが、鎌倉時代の仙覚、江戸時代の北村季吟、契沖、真淵は
こうした不充分な資料の中で、万葉集に注釈をつけていった
仙覚の「仙覚抄近などは、すでに研究史的な意義しかないようだが
初の全巻の注釈となる季吟の「拾穂抄」などの、当時の、あるいはその時代の
「万葉集」に対する真摯な取り組みに、胸が熱くなるものだ
時代を経るに従い、続々と刊行される「注釈書」は、
その過去の注釈書に言及しながら、それを基にして自身の研究成果を積み重ねてゆく
かと言って、新しい注釈書が、必ず正しいものとはならない
勿論、万葉人の歌を解釈するのだから、本人が現代に語るものは、残された歌しかなく
しかも、その歌も、表記上は「日本語」ではない
だから、完全な理解など出来るはずもない
しかし、それぞれの古注釈書に触れて見ると、
何故か、今でもその解釈がいいのでは、と思えることもある
「古注釈書」は、過去の注釈書だから、すでにその学説は役に立たない、のではなく
少なくとも、現代人より、万葉時代へ近い人たちの感覚がある
そんな気持ちで、古書店を廻り、古い注釈書を買い求めてきたが
高価過ぎて、なかなか手を出すことも出来ないでいたものだ
それでも、少しずつ集め出し
今日、やっと念願の『万葉集古義』全十巻を見つけた
ネットの古書店の方が、確かに見つけやすい
これが届くのは、来週の半ばのようだが
これでまた一首一首の幅が広がる
古いのは、学説ではなく、書かれた年代だということ、つくずく感じる
これも、万葉集のおかげだ