2月10日(月) 夜 都内某所にて
なんて気分が良いのだろうか。
今日は月曜日。だが、明日は休日。
建国記念日に圧倒的感謝。
1日働いたことがリセットされる気分だ。
そういえば、再来週も天皇誕生日で休みらしい。
その事実に気づいた時、俺の体中を光の速さで確かな予感が駆け巡った。
そう、
旅行行きてぇ!
という予感が。(Only my Travel by ねへ、3期観てます)
いや、行かないと無駄にしかねないという危機感かもしれない。
祝日休み、月1なら無駄にしてもやむなしだが、2回無駄にするのは勿体無さ過ぎるという、謎の自分ルールによると、今月は出掛ける必要がある。
再来週は3連休だが、ウィクロス新弾に集中したい。
明日出掛けようと決まったまでは良いが、場所はどうするか?
まぁ、俺が1日で出掛ける場所なんて、1か所しか無いんだがな。
2月11日 午前11時
電車を乗り継ぎ、駅に降り立つ。
そう、鎌倉だ。
都内から日帰りに行ける先で、ここほど観光地感を醸し出すスポットを見たことが無い。
訪れるのはもう5回目になる。
その疑問は、鶴岡八幡宮を離れ、周辺のスポットに向かい始めた時に気が付いた。
人が多すぎたのだ。
コロナウイルスが話題となり、そもそも寒い時期なので外出を控える人が多いと読んでいたが、そんなことは無い。
とにかく人で埋め尽くされている。
人混みが大敵な俺にとっては、辛いことこの上ない。
だが、一度鶴岡八幡宮を離れてしまえば、人は一気に減る。
集団で延々と徒歩で移動するという手段を取る人は少ない。
バスで先の目的地に向かうか、駅に引き返して大仏など他の目的地に向かうのが普通だ。
一人静かに歩みを進める俺は異端であろう。
機は熟した。
人混みを出て不要になったマスクを外せば、体内に鎌倉の空気が入ってきた。
雑音が消え、鳥の囀る声が聞こえてきた。
人が消え、視界には上品な生活感漂う鎌倉の風景が広がってきた。
自分の感情、果てには存在すら無と化すように、観光地と同化し味わうこと、それが俺の旅の目的だ。
五感の余計な刺激も、無為に沸き起こる感情も封じ込め、濁りの無い瞳で見渡すその先に、世界の真相は浮かび上がってくるのだろう。
大勢の人が本堂に祈りを捧げる中、俺は敢えて道を外す。
鎌倉の地から受けた直感に従い進めば、霊験あらたかな祠があった。
暗がりが不気味さを醸し出し、写真を撮ることすら躊躇われたが、好奇心がそれを上回った。
とはいえ世俗を解脱するばかりでは、愉しみを逃すこともあるもの。
時には俗に饗することもまた一興。
瓦を投げて割れれば厄も割れてくれるらしい。
語呂合わせの下らぬ催しだが、付き合ってやるのも悪くない。
注意書きを読むと、「厄割り石を目掛けて投げ、当てること」「割れなければ、割れるまで投げること」と書かれていた。
衆人環視の中、外して投げ直すのは大変恥ずかしい。
絶対一度で成功させねばならない。
ドクン、ドクンと、心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
間違いなく、今年一番緊張したと言えるだろう。
静かに瓦を離した。
瓦は厄割り石に当たり、綺麗に2つに割れた。
安堵の感情に浸っていると、徐々に、俗に饗したことへの慚愧の感情が浮かんできた。
ふむ、余計な感情を捨て、純粋に愉しむことが一番であろう。
ここまで到達したところで、ある事実に気付いた。
この場所(鎌倉宮)、今までに来たことが無い
駅から離れたと言っても、徒歩15分程度だ。
それでも来たことが無いとは。
過去4回の旅で行き尽くしたと言ったが、あれは嘘だ。
如何に自分がいい加減な存在かを思い知ると共に、
腹が、減った。
時計は正午を指していた。そろそろお昼時である。
鎌倉宮に入る前、1件のお店に目星を付けていた。
和の佇まいだが、決して高級感を気取らず、雰囲気・価格帯共に気軽に入れそうだ。
本日の定食はメニューが多く、価格以上の価値が期待できる。
迷う余地は無い。
店内はお年寄りが中心で、店主と世間話を繰り広げていた。
常連さんだろう。
家族連れが入店すると、子供に大きくなったねと声を掛け、微笑ましい光景だ。
注文後、普段より長い待ち時間も気にならない。
お茶を頂きながら、柄に似合わず店の雑誌を広げ、手打ち蕎麦の特集記事に読み入る。
店のBGMは静かな昭和の歌謡曲と、店主達の話し声だ。
日常を解脱した俺の感性は、極限に高まりつつあった。
冷めぬよう、瞬時にカメラに収め、スマホをしまい、頂きますと呟く。
まずは味噌汁に手を伸ばす。
箸を軽く湿らせつつ、口の中を軽く和に染めた。
次は大根の煮物。
やはり期待を裏切らない。食感を残しつつも、丁寧に煮汁を染み渡らせてある。
味がきちんと染み込んでいるから、味付けも濃くなく、すっきりとした味わいだ。
店主の丁寧な仕事ぶりに、賞賛の嵐を送ってた。
次にメインディッシュ、肉に手を伸ばす。
日常でも味わう肉料理、一見世俗を脱し切れていないように思えたが、その認識は誤っていた。
肉自体は勿論だが、準備段階の差が歴然である。
仕事に追われながら食べる昼休みのランチより、心に余裕を持って食べる今の方が、圧倒的に旨味を感じている。
大衆料理のステージで比較すれば一層、己の精神の余裕が感じられた。
次は肉以上に期待していた、個人的な目玉、鰯の生姜煮である。
煮物に注がれる職人芸は大根で体験済だ。
鰯の煮物、俺の大好物でありながら、骨まで食べられる固さに煮込みつつ、形を崩さず、濃すぎず、薄すぎない味に仕上げた一品と巡り合う機会は少ない。
そしてその期待は裏切られなかった。煮魚に黒米が無限に吸収されていく。
何かお忘れではないだろうか。
胡瓜とワカメの酢味噌和えが残っていた。
酢味噌合えを食べるのは実家以来であるが、酢と味噌が調和せず、喧嘩するイメージしか持っていなかった。
酢が強ければ味噌の変なクセを感じ、味噌が強ければコクに酢の変な酸味が混じるように感じる。
酢と味噌は永遠に分かり合えない、そんな認識が誤ったものであったと知ったのは、一口運んだ後のことであった。
衝撃が走った。
己の箸が、無意識のうちに黒米に伸びたのだ。
どう見ても米の付け合わせには見えない。肉の間に食べる口直し程度にしか思っていなかった。
確かに口に運んだ瞬間は、普通の酢の物の延長上にしか感じなかった。
だが、後から味噌の強烈なコクが襲い掛かってきた。
ただのコスパの良い定食とばかり思っていたが、語るほどに饒舌になっていった。
850円のランチの中に、実りある数々のドラマが生まれていったのだ。
店主への圧倒的なリスペクトの念を抱きながら、俺は店を後にした。
そして徒歩の旅、最後の目的地にたどり着く。
報国寺の竹林である。
竹林があると聞き、かつて京都の嵐山で見た光景が蘇った。
間から日が差し、風が吹けば樹が揺れる音が聞こえる。
まさに「風情」の2文字を体現するかのような光景を、久々に思い出していた。
鎌倉の竹林もまた、風情の塊であった。
竹の成長力は凄まじく、幹の太さと高さに呆気に取られた。
大きな竹が陰を生み、一部に日が差し陰と陽のコントラストが生まれる。
ただ一人、風情漂う空間に浸りきっていた。
行き尽くした先には、帰宅が迫り、明日から仕事に戻るという日常が見え始めていた。
感傷に浸ってばかりは居られない。
帰り道も鎌倉の残り香を味わいながらゆっくりと歩みを進め、また駅の周辺へ戻ってきた。
ここからは第2部。
再びマスクを付け、世俗に舞い降りると共に平常運転へ移行する。
そう、
食べ歩き
である。
焼き鳥は注文後、炭火で焼いてから出してくれる。当然旨い。
メンチカツ。揚げたては当然旨い。
煎餅は1枚50円。気軽さが魅力的で、つい毎回寄ってしまう。
今回の目玉。抹茶プレミアムソフト、650円。
粉末が見えるのは、1g100円する高級抹茶である。
口に運んだ瞬間に、ソフトクリームを超越した、純粋な抹茶の世界が広がった。
ディープな抹茶だ。
だが、粉が喉に達するとむせてしまい、残りの粉が舞い散る。
鼻息が掛かると、また粉が散ってしまう。
あぁ、何て罪な粉末なのだろう。
口に運ぶ程追い求める気持ちが強くなるのに、所詮は粉末、簡単に舞い散ってしまう。
儚さもまた和、ということだろうか。
今回の小町通りは、食べ歩きに留まらない。
フクロウとの触れ合いの場が存在した。
一体中には、どんな世界が広がってるのだろうか・・・
大小、毛並みも様々なフクロウ達が、俺を出迎えてくれた。
眠って微動だにしないフクロウもまた、らしさを感じさせてくれる。
店員さんに「頭と背中を撫でてください」と言われ、手をフクロウの背後に回そうとすれば、フクロウもまた向きを変える。
「決して背後を取らせない」
それが大自然で生き残るため、会得した術なのであろう。
我が最愛のティナ・スプラウトはフクロウの因子にイニシエーターである。
そんな親しみを覚えながら、体を預けてくれるフクロウには、撫でて毛並みを感じながら、フクロウの世界を満喫していた。
時にはリスも居た。
やはり可愛い。
嗚呼、素晴らしきかな鎌倉。
5度目の来訪にも、毎回変わらぬ魅力と、新たな発見を見せてくれた。
また来よう。そう決心するまでもなく、俺の身体が、心が、鎌倉を欲する日が来るのだろう。
家でお土産を広げ、筆を執りながら、また訪れる日に思いを馳せていた。(完)
(まめやと木製食器は良質な品が安価で手に入るため、毎回贔屓にしています)