2月10日(月) 夜 都内某所にて

 

なんて気分が良いのだろうか。

今日は月曜日。だが、明日は休日。

建国記念日に圧倒的感謝。

1日働いたことがリセットされる気分だ。

そういえば、再来週も天皇誕生日で休みらしい。

その事実に気づいた時、俺の体中を光の速さで確かな予感が駆け巡った。

そう、

 

旅行行きてぇ!

 

という予感が。(Only my Travel by ねへ、3期観てます)

いや、行かないと無駄にしかねないという危機感かもしれない。

祝日休み、月1なら無駄にしてもやむなしだが、2回無駄にするのは勿体無さ過ぎるという、謎の自分ルールによると、今月は出掛ける必要がある。

再来週は3連休だが、ウィクロス新弾に集中したい。

明日出掛けようと決まったまでは良いが、場所はどうするか?

まぁ、俺が1日で出掛ける場所なんて、1か所しか無いんだがな。

 

 

2月11日 午前11時

 

電車を乗り継ぎ、駅に降り立つ。

 

 

そう、鎌倉だ。

都内から日帰りに行ける先で、ここほど観光地感を醸し出すスポットを見たことが無い。

訪れるのはもう5回目になる。

 

駅の目の前に小町通り+鶴岡八幡宮という最強観光スポットが存在し、数時間を安定して過ごせる。
後は大仏を見に行く、鎌倉シャツ本店に行く、直感に従い鎌倉山までバスに行き、何も調べず高級そうなレストランに直撃してランチ1回で諭吉を飛ばすなど、数多くの観光プランを立ててきた。
最近は神奈川と言えばウィクロス大型終わりの横浜中華街が主流となっており、2,3年程来ていなかったため、久しぶりの訪問となる。
すでに色々行き尽くした。久々の今回は、原点に立ち返り、小町通り+鶴岡八幡宮+αの駅近隣徒歩コースを選ぶこととした。
 
 
まずは鶴岡八幡宮へ向かう。
駅徒歩3分でこの光景は流石観光地と言うべき。
京都は駅からバスなどを乗り継いで観光スポットを回ることを考えると、観光の手軽さでは鎌倉に軍配があがる。
 
だが、鶴岡八幡宮に着いた自分は、違和感を感じた。
折角の観光なのに、何故か気分が上がらない。
眠い・・・

その疑問は、鶴岡八幡宮を離れ、周辺のスポットに向かい始めた時に気が付いた。

 

人が多すぎたのだ。

 

コロナウイルスが話題となり、そもそも寒い時期なので外出を控える人が多いと読んでいたが、そんなことは無い。

とにかく人で埋め尽くされている。

人混みが大敵な俺にとっては、辛いことこの上ない。

 

だが、一度鶴岡八幡宮を離れてしまえば、人は一気に減る。

集団で延々と徒歩で移動するという手段を取る人は少ない。

バスで先の目的地に向かうか、駅に引き返して大仏など他の目的地に向かうのが普通だ。

一人静かに歩みを進める俺は異端であろう。

 

機は熟した。

 

人混みを出て不要になったマスクを外せば、体内に鎌倉の空気が入ってきた。

雑音が消え、鳥の囀る声が聞こえてきた。

人が消え、視界には上品な生活感漂う鎌倉の風景が広がってきた。

 

自分の感情、果てには存在すら無と化すように、観光地と同化し味わうこと、それが俺の旅の目的だ。

 

五感の余計な刺激も、無為に沸き起こる感情も封じ込め、濁りの無い瞳で見渡すその先に、世界の真相は浮かび上がってくるのだろう。

鎌倉という地から五感で受け取った信号を、そのまま脳内で言葉に起こすだけ。
詩人とすら言えない、ただの再生機。
だが、それでいい。そんな感傷に浸りながら、鎌倉の町を歩み進めていた。
 
 

大勢の人が本堂に祈りを捧げる中、俺は敢えて道を外す。

鎌倉の地から受けた直感に従い進めば、霊験あらたかな祠があった。

暗がりが不気味さを醸し出し、写真を撮ることすら躊躇われたが、好奇心がそれを上回った。

 

 

とはいえ世俗を解脱するばかりでは、愉しみを逃すこともあるもの。

時には俗に饗することもまた一興。

瓦を投げて割れれば厄も割れてくれるらしい。

語呂合わせの下らぬ催しだが、付き合ってやるのも悪くない。

注意書きを読むと、「厄割り石を目掛けて投げ、当てること」「割れなければ、割れるまで投げること」と書かれていた。

 

衆人環視の中、外して投げ直すのは大変恥ずかしい。

絶対一度で成功させねばならない。

ドクン、ドクンと、心臓の鼓動が速くなるのを感じた。

間違いなく、今年一番緊張したと言えるだろう。

静かに瓦を離した。

 

瓦は厄割り石に当たり、綺麗に2つに割れた。

 

安堵の感情に浸っていると、徐々に、俗に饗したことへの慚愧の感情が浮かんできた。

ふむ、余計な感情を捨て、純粋に愉しむことが一番であろう。

 

ここまで到達したところで、ある事実に気付いた。

 

 

この場所(鎌倉宮)、今までに来たことが無い

 

駅から離れたと言っても、徒歩15分程度だ。

それでも来たことが無いとは。

 

過去4回の旅で行き尽くしたと言ったが、あれは嘘だ。

 

如何に自分がいい加減な存在かを思い知ると共に、

腹が、減った。

時計は正午を指していた。そろそろお昼時である。

 

鎌倉宮に入る前、1件のお店に目星を付けていた。

 

 

和の佇まいだが、決して高級感を気取らず、雰囲気・価格帯共に気軽に入れそうだ。

本日の定食はメニューが多く、価格以上の価値が期待できる。

迷う余地は無い。

 

店内はお年寄りが中心で、店主と世間話を繰り広げていた。

常連さんだろう。

家族連れが入店すると、子供に大きくなったねと声を掛け、微笑ましい光景だ。

 

注文後、普段より長い待ち時間も気にならない。

お茶を頂きながら、柄に似合わず店の雑誌を広げ、手打ち蕎麦の特集記事に読み入る。

店のBGMは静かな昭和の歌謡曲と、店主達の話し声だ。

日常を解脱した俺の感性は、極限に高まりつつあった。

 

孤独のグルメとは、料理単体を指すのではない。
料理のみならず、味わうための周りの環境を整え、自らの感性を高め、料理の魅力を最大限に受容できる状況を生み出してこそ、最高のグルメが待っているのだ。
 
待ち時間を余すことなく活用し、準備を整えていると、遂に料理を迎え入れる時が訪れた。
 
 

冷めぬよう、瞬時にカメラに収め、スマホをしまい、頂きますと呟く。

まずは味噌汁に手を伸ばす。

箸を軽く湿らせつつ、口の中を軽く和に染めた。

 

次は大根の煮物。

やはり期待を裏切らない。食感を残しつつも、丁寧に煮汁を染み渡らせてある。

味がきちんと染み込んでいるから、味付けも濃くなく、すっきりとした味わいだ。

店主の丁寧な仕事ぶりに、賞賛の嵐を送ってた。

 

次にメインディッシュ、肉に手を伸ばす。

日常でも味わう肉料理、一見世俗を脱し切れていないように思えたが、その認識は誤っていた。

肉自体は勿論だが、準備段階の差が歴然である。

仕事に追われながら食べる昼休みのランチより、心に余裕を持って食べる今の方が、圧倒的に旨味を感じている。

大衆料理のステージで比較すれば一層、己の精神の余裕が感じられた。

 

次は肉以上に期待していた、個人的な目玉、鰯の生姜煮である。

煮物に注がれる職人芸は大根で体験済だ。

鰯の煮物、俺の大好物でありながら、骨まで食べられる固さに煮込みつつ、形を崩さず、濃すぎず、薄すぎない味に仕上げた一品と巡り合う機会は少ない。

そしてその期待は裏切られなかった。煮魚に黒米が無限に吸収されていく。

 

何かお忘れではないだろうか。

胡瓜とワカメの酢味噌和えが残っていた。

酢味噌合えを食べるのは実家以来であるが、酢と味噌が調和せず、喧嘩するイメージしか持っていなかった。

酢が強ければ味噌の変なクセを感じ、味噌が強ければコクに酢の変な酸味が混じるように感じる。

酢と味噌は永遠に分かり合えない、そんな認識が誤ったものであったと知ったのは、一口運んだ後のことであった。

 

衝撃が走った。

己の箸が、無意識のうちに黒米に伸びたのだ。

どう見ても米の付け合わせには見えない。肉の間に食べる口直し程度にしか思っていなかった。

確かに口に運んだ瞬間は、普通の酢の物の延長上にしか感じなかった。

だが、後から味噌の強烈なコクが襲い掛かってきた。

酢の酸味が食感をそそり、喧嘩することなく味噌の旨味を届ける。
酢の物で米を食べたことなど、生まれてこの方一度も無かった。期待値皆無であった分、衝撃は大きかった。

 

ただのコスパの良い定食とばかり思っていたが、語るほどに饒舌になっていった。

850円のランチの中に、実りある数々のドラマが生まれていったのだ。

店主への圧倒的なリスペクトの念を抱きながら、俺は店を後にした。

 

そして徒歩の旅、最後の目的地にたどり着く。

 

 

報国寺の竹林である。

竹林があると聞き、かつて京都の嵐山で見た光景が蘇った。

間から日が差し、風が吹けば樹が揺れる音が聞こえる。

まさに「風情」の2文字を体現するかのような光景を、久々に思い出していた。

 

鎌倉の竹林もまた、風情の塊であった。

竹の成長力は凄まじく、幹の太さと高さに呆気に取られた。

大きな竹が陰を生み、一部に日が差し陰と陽のコントラストが生まれる。

ただ一人、風情漂う空間に浸りきっていた。

 

行き尽くした先には、帰宅が迫り、明日から仕事に戻るという日常が見え始めていた。

感傷に浸ってばかりは居られない。

帰り道も鎌倉の残り香を味わいながらゆっくりと歩みを進め、また駅の周辺へ戻ってきた。

 

ここからは第2部。

再びマスクを付け、世俗に舞い降りると共に平常運転へ移行する。

そう、

 

食べ歩き

 

である。

 

 

焼き鳥は注文後、炭火で焼いてから出してくれる。当然旨い。

 

 

メンチカツ。揚げたては当然旨い。

 

 

煎餅は1枚50円。気軽さが魅力的で、つい毎回寄ってしまう。

 

 

今回の目玉。抹茶プレミアムソフト、650円。

粉末が見えるのは、1g100円する高級抹茶である。

口に運んだ瞬間に、ソフトクリームを超越した、純粋な抹茶の世界が広がった。

ディープな抹茶だ。

 

だが、粉が喉に達するとむせてしまい、残りの粉が舞い散る。

鼻息が掛かると、また粉が散ってしまう。

あぁ、何て罪な粉末なのだろう。

口に運ぶ程追い求める気持ちが強くなるのに、所詮は粉末、簡単に舞い散ってしまう。

儚さもまた和、ということだろうか。

 

今回の小町通りは、食べ歩きに留まらない。

 

 

フクロウとの触れ合いの場が存在した。

一体中には、どんな世界が広がってるのだろうか・・・

 

 

大小、毛並みも様々なフクロウ達が、俺を出迎えてくれた。

眠って微動だにしないフクロウもまた、らしさを感じさせてくれる。

店員さんに「頭と背中を撫でてください」と言われ、手をフクロウの背後に回そうとすれば、フクロウもまた向きを変える。

 

「決して背後を取らせない」

 

それが大自然で生き残るため、会得した術なのであろう。

我が最愛のティナ・スプラウトはフクロウの因子にイニシエーターである。

そんな親しみを覚えながら、体を預けてくれるフクロウには、撫でて毛並みを感じながら、フクロウの世界を満喫していた。

 

 

時にはリスも居た。

やはり可愛い。

 

嗚呼、素晴らしきかな鎌倉。

5度目の来訪にも、毎回変わらぬ魅力と、新たな発見を見せてくれた。

また来よう。そう決心するまでもなく、俺の身体が、心が、鎌倉を欲する日が来るのだろう。

 

家でお土産を広げ、筆を執りながら、また訪れる日に思いを馳せていた。(完)

 

(まめやと木製食器は良質な品が安価で手に入るため、毎回贔屓にしています)