去年4月、埼玉県さいたま市の永田陣屋、寿能城を訪れたあと、さらに同じくさいたま市の城を訪れましたニコニコ


今回の城は2度目の訪城となる岩槻城です照れ


岩槻城(岩付城)は戦国時代初期には古河城の古河公方・足利成氏に対抗するため、1457年(長禄元年 )、扇谷上杉持朝とその家臣太田道真・太田道灌父子により、江戸城・河越城とともに築かれたとされていますカブト

1522年(大永2年)太田道灌の養子・資頼が岩槻城の城主となり、後北条氏が1546年(天文15年)の河越夜戦で勢力を拡大すると、この時の岩槻城主・太田資正(三楽斎)がそれに対抗しましたナイフ


1564年(永禄7年)資正の留守中に嫡子・太田氏資が北条氏康に降り、氏資戦死のあと岩槻城は後北条氏が領有しましたが、1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際には約2万の兵に攻められ落城しましたニコニコ

徳川家康の関東転封後は徳川譜代の高力清長が2万石で岩槻城に入り、以後は青山氏・阿部氏・板倉氏・戸田氏・藤井松平氏・小笠原氏・永井氏ら譜代大名の居城となり、江戸中期に大岡忠光(大岡忠相の遠縁)が入って以後は、廃藩置県まで大岡氏の居城でした照れ

余湖くんのホームページより、かつては広い城郭だったようです下矢印

今は岩槻城址公園となり、遺構は新曲輪と鍛治曲輪の土塁・堀を残すのみですニコニコ

公園は遊具もあり、賑わってました照れ

城の遺構が残る区域に突入チュー

下矢印右上の赤矢印から堀底ウォーク爆笑

相方右矢印堀底ウォークチュー

自分右矢印土塁ウォークチュー

堀底は遊歩道となっていて、土塁の方もなかなか歩けます爆笑

途中、木橋と説明板がありますニコニコ

ここには100名城・山中城で有名な後北条氏のお家芸「障子堀」があったそうですチュー

さらに進むと堀が深くなってきますチュー


立派な空堀です照れ

結構な深さですチュー

はしゃいでます爆笑

鍛治曲輪へ走る人

城碑は別名の「白鶴城」下矢印

鍛治曲輪の土塁ウォークチュー

岩槻城の2つの移築門を見に行きました下矢印

まずは裏門下矢印

続いて黒門下矢印

今回はここまでで、次回後編に続きます照れ