戦争は知の未熟が原因! | ネグmamaと息子

ネグmamaと息子

ネグレクトママから京大生が育った!
その京大生も巣立ってしまって
今は老夫婦2人生活。

アイコンママブロネタ「コラム」からの投稿


今日の中日新聞の特報から

<人文社会科学は知の泉>
戦時中、陸軍の軍属としてインドネシアに派遣された社会思想史の水田洋・名古屋大名誉教授(96)は戦争によって学ぶ機会を奪われた一人だ。戦後、その失った時間を取り戻そうと研究に没頭した。水田さんはいま、人文社会科学系をないがしろにするような政府の施策を痛烈に批判する。「国民から判断力を奪いかねない。知性の未熟さが招いた戦争の反省を忘れたのか」

~中略~

 大学の新聞部で平和を訴える文化人たちを取材する一方、日本占領下の中国人の悲哀を描く演劇に傾倒した。特高警察に摘発される仲間も現れ始めた。
 「軍部が問答無用に支配する体制は危機的だと思っていた。理屈に合う社会をどうすれば築けるのか、社会科学を学ぶことで見いだしたかった。だから、研究の道に進もうと考えた」

       ◇

 しかし、希望は学徒動員のための繰り上げ卒業で打ち砕かれる。小柄な体格で徴兵こそ免れたが、政府系調査機関「東亜研究所」で働くことに。戦争真っただ中の四二年、日本軍が植民地支配していたジャワ(インドネシア)に、陸軍の軍属として調査目的で派遣された。

~中略~

 捕虜になった。収容所ではインドネシア人に「ケイレイシロ」と殴られ、オーストラリア兵には意味もなく自動小銃を突きつけられた。虫に食われたトウモロコシとコメを混ぜた主食と塩汁。マラリアにも苦しんだ。しかし、復員船は終戦翌年の六月、思いのほか早く迎えに来てくれた。
 再び学問ができる喜び。自宅は空襲で焼失していたが、恩師のつてで東京商科大に特別研究生として戻ることができた。
 大学では書物を読みあさった。「芸術としての音楽はよく分からないが、例えばベートーベンの文献を読むと、彼の思想が音楽にどう関わっているのか、興味が出る。そうなると、当時のデモクラシーの普及と音楽の関係も気になる。あれこれ読んでいると、こうなりますよ」。並んだ本棚を見上げて、笑った。
 アダム・スミス研究で頭角を現し始めた四九年、名古屋大の助教授に就いた。「戦争は有能な先輩や学友の命を奪った。私は例外的に生き残っただけ。はからずも席を譲ってもらったのだから、がむしゃらにやらないわけにはいかなかった」。著作や翻訳書は計七十冊以上に上る。

       ◇

 社会科学に携わって八十年がたつ。「物事を判断する力を身に付けるには必要な学問」と位置付ける。
 社会科学を学ぶには現在だけではなく、歴史に目を向ける必要があると考える。日本の過去の戦争の過ちは判断力の欠如が招いた。だからこそ、社会科学が大事なのだと信じてきた。
 だが、そうした水田さんの戦後の思いと逆行する動きが現れてきた。文部科学省は六月、全国の国立大に「人文社会科学系などの廃止や、社会的要請の高い分野への転換」に努めるよう通知した。
 文科省は「廃止ありきではない。要請したのは、廃止を含めた組織の見直し」と話すが、通知を撤回する気配はない。水田さんは「愚かな施策。技術屋だけ育てばいいと言っているに等しい。戦後七十年、国は逆戻りする気か」と語気を強める。
 水田さんは市民団体「あいち九条の会」のメンバーとして護憲運動にも取り組む。安保法制をめぐっては「スミスは自分の体系に合わせて事物を進めようとする理想主義者を批判した。首相は集団的自衛権行使の要件の一つ、存立危機事態を『合理的に判断する』と言った。道理にかなわないことを合理的という首相は、社会科学を学び直した方がいい」と批判する。

 このまま、日本の人文社会科学は衰退の道をたどるのか。水田さんは安保法制に反対する学生グループらの活動を例に「六〇年安保闘争では『岸を倒せ』一辺倒だったが、いまの若者は自分の言葉で発信している。広い意味での人文社会科学がまだ生きている証しだ」と期待を寄せる。

 現在、水田さんは十九世紀の英国人哲学者の原書を翻訳している。話題が過去の偉人に及ぶたび、「それもやらなきゃな」とつぶやいた。「健康のこつは批判精神」という九十六歳の老学者は、権力が間違った方向に行かないか、これからも監視を続ける。

 (池田悌一)

元のコラム記事を読む