其ノ四十七
足利義昭

足利義晴の次男として山城に生まれる。兄が家督相続権を持っていたので、義昭は仏門に入り、覚慶と名乗り、高僧として一生を送るはずだったが、1565年、松永弾正(久秀)が三好三人衆と共謀して、義昭の兄で将軍の義輝を暗殺し、興福寺に義昭を幽閉する(義昭までその手に掛けようとした。)が細川藤孝が隙をみて義昭を救出し、二人で京から脱出し、六角家(三好三人衆とつながっていた。)や朝倉家(実力や家柄的には将軍擁立に申し分ないが、遥々訪ねてきた義昭のことを疎んじた)を頼り、各地を流浪した。
朝倉家で明智光秀が藤孝と懇意になり、親身になって接してもらい、それに光秀は、急激に勢力をあげ、天下布武を掲げた織田信長に頼ってはどうかと持ちかけ、光秀が使者となり、信長と交渉し、義昭は信長に迎え入れられた。その後、信長は、迅速に行動し三ヶ月で京から三好一党を追放して、義昭は念願の征夷大将軍に任じられ、室町幕府が再興した。
その後、信長が自ら陣頭指揮して義昭のため、御所は、義輝の死に習い、義昭は信長に二重の水堀と高い生垣のある暗殺のような襲撃に備えたのを建造した。
その後、政治的活動に力を入れるが、信長は警戒心を強め、殿中御掟を定め、義昭は信長の真意に気付き、二人の闘いが始まった。
信長はこの後、朝倉義景の討伐に着手したが、浅井長政の裏切りにより、朝倉と浅井に狭撃されているうちに反・信長勢力を結集しようとした。
信長は義昭のせいで石山本願寺や武田信玄と闘わないといけなくなった。
これを信長包囲網と言っても過言ではない。
義昭の戦略眼は見事だが、武田信玄がなくなってから、包囲網は少しずつ瓦解していき、義昭は信長との直接対決となり、ついに傍にいた藤孝も離れていき、京を追放された。
秀吉政権下では、山城に一万国を与えられ、秀吉のお伽衆となり、平和な世で幸福な時間を送った。