母方の祖父は、青山に住んでいましたが、その頃父方の祖母は、高田馬場に住んでいました。
父方の祖父は、第2次世界大戦終戦の翌年(1946年)に死んでいるので、直接会ったことはないのです。
祖父は、練馬区の桜台に土地を借りており、そこに女性を囲って住んでいたみたいです。周りの人たちは、あまり詳しくは話してくれなかったのですが、性病で死んだらしいのです。不名誉なことだからね・・・。
父は、母親(僕にとっては祖母)と、お姉さんの3人家族だったのです。
実際には、弟もいたんですが、終戦間もない9月1日に、22歳の若さで亡くなっているのです。
これについては、「戦死」したように聞いたことがあるので、戦死の報告を受けた時を命日にしたのかもしれないのです・・・。
高田馬場の家は、高田馬場の駅から早稲田大学に抜ける、早稲田通りの都電通り沿いにありました。
その当時都電(都営の路面電車)は、都内を縦横無尽に走っていて、公共交通機関として、十分にその役目を果たしていました。
都電でカバーできないところは、都営のトロリーバスが、その役目をカバーしていました。
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トロリーバスは、道路上に張った架線から、2本のトロリポールを通して電気を取り込み、その電気を動力として動く電気バス。
覚えている人って、どれぐらいいるのだろうか・・・。
現在は、排気ガスが気になる地域での、無公害バスとして使われています。
日本ではただ1箇所、黒部アルペンルートの、長野県大町市の扇沢駅~黒部ダムの6.1kmのトンネル内の交通手段としてトロリーバス(略して:トロバス)が、営業運転されています。
そのトロリーバスの変遷の画像を使わせてもらえるように、黒部ダムのサイトにお願いしたのですが、ご了承をいただけませんでしたので、直接アクセスしてみてください。トロリーバスの姿が見られます。
いろいろと検索してみたところ・・・、
http://www.geocities.jp/glock1320031/sub7-1.html に都営のトロリーバスの画像がありました・・・。
是非、見てください。こんなバス?電車?が走っていたんです・・・。
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この祖母の家に行くには、国電山手線の高田馬場駅から歩くか、池袋から渋谷行きのトロリーバスで戸塚2丁目で降りて歩くという2通り・・・。
高田馬場から歩くと、印象的なのは、駅を出て間もなく通る漢方薬局の匂い・・・。
この匂いをかぐと、「あぁ~~、おばあちゃんの家に向かっているんだ」って、子供ながらに思ったものでした。
祖母の家は、早稲田通り沿いで、早稲田松竹(映画館)と純喫茶『らんぶる』の間の牛乳販売店のとなりで、『江戸っ子』という飲み屋をやっていたのです。
この写真は、その店の前だと思うのですが、祖母が僕を抱いています・・・。
小さかった写真を2倍に伸ばしたので、画質は最悪です・・・。
この写真は、道路に向かって写したもので、都電の架線も写っています。
これも、抱かれているのは僕で、写真は2倍に拡大しました。
店の中は、和風バーといった感じで、薄暗い照明で、和風の食器にはいろいろな料理が盛られたようです。
その食器の一部は、今も、僕の家で使っています。
おばあちゃんと伯母さんの2人でやっていたのですが、伯母さんは『早稲田小町』って呼ばれるような美人だったようです。
写真があったのですが、行方不明です・・・。
見つかったら、掲載します・・・。
その店には、早稲田大学の関係者や学生も、良く出入りしていたようです。
中でも、「山椒魚」などで有名な井伏鱒二も常連だったようで、春先には、好物の土筆(つくし)の甘露煮を食べるのを楽しみにしていたそうです。
そこでおばあちゃんは、僕達孫を連れて、荒川土手に土筆を採りに行きました。
家に帰ってきてから、一生懸命にはかまを取って、佃煮を作っていました・・・。
おばあちゃんは、とてもおしゃれな人で、髪の毛は特に大事にしていて、やや薄くなったのを気にして、孫の僕達に触られることさえも嫌がっていました。
伯母さんは、グルメな人で、いろいろとおいしいものを食べさせてもらいました。
築地でふぐやてんぷら、世田谷でステーキ、家に行くと各地の有名なお菓子が・・・。
この伯母さんは、周りからとてもきれいだと言われたにもかかわらず、生涯独身を通し、昭和55年1月21日、ロッキンチェア-に座ったまま61歳の生涯を閉じました・・・。