「建築が一つの芸術として存在する以前に、それはまずグラヴィティによる制約を乗り越えねばならない。これを乗り越える瞬間にそれはこの制約による必然的 な一つの形式を約束される。音楽芸術においても同様である。われわれは建築の有する「力学」の中にこの制約を避難するための幾多の法則を発見すると同様 に、音楽においても時間的(水平的)グラヴィティを避難する多くの法則を見るのである。そしてこれらの法則がすでに大体のわれわれの芸術の形式を決定して しまっている。われわれが、われわれの芸術的意思を表現するのは常にこの形式内においてである。」

― 深井史郎 (1907-59 作曲家「恐るるものへの風刺」より『バッハの芸術の劫久性について』)
それだから、あなたたちに言っておく。
何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい
何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。
命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。

空の鳥を見なさい。
まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。
それでも、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。
あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。

また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。
野の花がどうして育っているか、考えてみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたたちに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ
神はこのように装って下さる。
それなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。
だから、何を食べようか、何を飲もうか
あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。

だから、あすのことを心配するな。
あすのことは、あす自身が心配する。
一日の苦労は
その日一日だけで十分である。

― マタイによる福音書(6章25-34節より)
「現実がそのままで美しかったなら、絵も文字も生まれはしなかった。そして現実生活の一部分にでも共感するものがなかったら、文章も絵も作られはしない。」

松本竣介 (1912-48 洋画家)