永山則夫は、1949年6月27日、北海道網走で8人兄弟の7番目の子(四男)として生まれた。父親は博打に溺れ、耐えかねた母は、厳冬期の網走に永山を 含む四人の子を遺棄して、青森の実家へ逃げた。中学卒業後に永山は上京し、店員、自動車塗装工、日雇労働者の職を転々とし、68年、盗みに入った米軍基地 で手に入れた護身用のピストルで四件の連続射殺事件を起こし、69年に逮捕された。犯行当時19歳だった。

少年であった永山の事件は、刑 事手続ではなく少年保護事件として扱われるのが原則であったが、家庭裁判所は刑事処分を相当とし、検察官へ送致するいわゆる「逆送」を行った。そのため永 山は20年余に及ぶ裁判にかかり、90年に死刑確定、97年8月1日に東京拘置所でその死刑が執行された。

永山は獄中から多くの著作を発表した。内容は小説や短歌から評論まで幅広いが、そのうち、二審の東京高裁が一審の死刑判決を破棄して無期懲役とした後に書かれた自伝的小説『木橋』は、第19回新日本文学賞を受賞した。

『無 知の涙』は、逮捕から約3ヵ月後の1969年7月2日から翌70年10月30日までの間に、永山が獄中で綴った「ノート1」から「ノート10」までの10 冊のノートの内容をまとめたものとなっている。詩作、短歌、自分や社会についての様々な考察や小説の断片までをも含む雑多なもので、この本をもってひとつ の著作、作品ということは難しい。

永山の言葉に関する才能は、ノート1にして既に明らかといえる。しかし、この本の前半では、自分と、自 分が犯した罪に対する永山の大きな動揺に直結した詩作が中心となっているのに、ノートが後半に進むにつれそのような詩作は少なくなり、難解な言葉を振り回 す大仰な長文が頁を覆うようになる。

永山は獄中で、凄まじいとしか形容しようのない勢いで、哲学、社会学、心理学、文学その他、あらゆる 学問について猛烈に勉強した。中学校すら教師の恩情によりかろうじて卒業したような状態であった永山が、マルクスやカントを読みこなすようになる様子に は、本当に驚いてしまう。その成果が、ノートの後半に現れているのだろう。こんな場面は、ダニエル・キイスのベストセラー小説の中にもあったと思うが、永 山の変化はそれを地で行くといえるほど。

感傷的な詩作も、覚えたての言葉を振り回してみたい欲求も、どちらも青年の特権だとは思うけれ ど、いったん手に入れた物差し、特に資本主義と社会主義の対立という犯罪そのものとは相当隔たりのある物差しに、全面的に寄りかかって自己とその罪につい て持論を述べる永山の文章は、やはり読んでいて残念に思う。前半の詩作に較べると、後半の文章の多くでは、イデオロギーが永山の内省を覆い隠してしまって いるように感じるからだ。

この本の中で最も鋭い言葉は、「私が無ければ事件は無い、事件が在る故に私がある。」(ノート5・2月28日) というものだろう。二十歳の永山が、この言葉の深刻な意味を、どれくらい意識してノートに書きつけたのかは分らない。もしかしたら、デカルトの言葉を真似 てみたかっただけなのかもしれない。しかし、幼少期から社会の暗がりの中に押し込まれたままだった永山の実生活と内面を思うとき、事件は、それがどれほど 非社会的なものであったにしろ、確かに永山をその暗がりから引きずり出したことには間違いないはずである。

私達は犯罪者について、簡単に「反省の有無」をいうけれど、その犯罪が現在の自分の存在の欠くことのできない前提事実になっているような者に、私達が要求する「反省」とはいったい何なのか。生ぬるい私の常識は、永山の言葉によって困難な問いを突きつけられる。

こ の本は、38年間に及ぶ永山の獄中生活の、最初の1年余りにおける内省を記したものにすぎず、その時永山は弱冠20歳であったことからも、これを読むだけ では永山事件と永山則夫について知るには足りない。けれども、「活動家」の殻をしょってしまう前の永山の内面を知ることができる点で、私には読む意味が あった。

最後に、永山の詩作から2つだけ引用する(題名が末尾にあるのは作者の意図である)。

目ない 足ない
おまえ ミミズ
暗たん人生に
何の為生きるの

頭どこ 口どこ
おまえ ミミズ
話せるものなら
声にして出さんか

心ない 涙ない
おまえ ミミズ
悲しいのなら鳴いてみろ
苦しいのなら死んでみろ

生まれて死ぬだけ
おまえ ミミズ
跡形さえも消され
残すものない憐れな奴

おい雄か やい雌か
おまえ ミミズ
踏〔ん〕ずけられても
黙ってる阿呆な奴

判ってる 知ってる
おまえ ミミズ
先っちょ気持ばかりに
モチョコ動かすだけ

ニョロニョロ 這えずり
おまえ ミミズ
チョロ遠く出過ぎて
日干しで果てぇた

「ミミズのうた」(ノート4)



あんたが神と言う奴か 一度
一度会いたかったぜ おっさん
質問に答えてやろうか

悪いとは思ってないぜ 第一番に言う
あんたに裁く権利はないぜ
あんたを信じた為にこうなった
それでも裁くと言うなら――

おれの育って来た一日でも
あんたは見たのかよ おっさん!
神と名乗るくらいなら 分るな
おれの罪と 育った一日でも較べて見ろ

・・・答えてみろよ えっえ!
答えられねぇだろうよ
さっきの偉高〔威丈高〕振りはどうした
・・・どうした おっさんよ!・・・

いいか!!答えらせねぇ!俺が!
あんたと俺は生きる世界が違うんだ
あんたは あんたと人間に差別を作った
俺の純粋なる良心は差別の無い世界の物だ

あんたは自分を何だと思ってんだ 言ってみろ!
・・・まぁ待〔て〕よ 人の名前聞くまえに何とやらだ
俺は殺人者だ えばれた者(もん)じゃねえ
だがよ ・・・あんたよりはましだぜ

あんたは精神界一番の無責任者だ
何をやっても 仕出かしても 黙って 黙って
見てきて こうなってから言いやがるが
俺は違うぜ ・・・責任取るんだ
誰にも頼んだ訳じゃねぇのによ
生みやがって 生みやがってよ!
俺は責任とるんだ!
俺は責任とるんだい・・・

「言う事はそれだけか」(抜粋、ノート3)


 
いつからか、少なくない人間の表現行為のうち、音楽、なかでも、西洋のクラシックと言われる音楽を好むようになった。そして、さらにその中で、J.S. バッハは私にとって特別な作曲家になっている。音楽を聴き始めた頃のことはもう思い出せないが、バッハとの出会いは、今でも鮮やかに思い出すことができ る。

高校生の時、文化祭の出し物として、友人2人と組んでヴァイオリン、フルート、ピアノで何か演奏しようということになった。バッハの 作品もその候補に挙がっていた。私はその作品を含むバッハの作品集のCDを自宅近くの公立図書館で借りてきて、自宅の再生機のトレイにCDを乗せ、最初に 収録された作品から再生した。

突然、窓がいっぱいに開け放たれたようだった。それまでに知っていた音楽には感じたことがない広々とした威 厳と、理由は分からない「正しさ」のような感覚が私を打った。音楽というものは、私が考えていたよりも、ずっとずっと遠く、高いところへ向けて開かれてい るのを予感した。

その作品は、バッハの管弦楽組曲 第1番 ハ長調の序曲で、カール・リヒター指揮のミュンヘン・バッハ管弦楽団による演奏であった。今思えば、バッハの作品の中で必ずしも飛び抜けた傑作というわけ ではなかったはずではある。また、それまでにもバッハの他の作品に接したことがなかったわけではなく、どうしてあの日、あの序曲について、私が特別な反応 を示したのか、自分では分からない。それでも、あのとき、初夏の西日が差し始めた部屋の空気が、ある秩序の下に置き直されたような感覚を、私は生涯忘れる ことはできないだろう。

バッハは、音楽の父と呼ばれる。それでは音楽の母とは誰になるのか、考えてみれば面白いとは思うけれど、バッハを 父を呼ぶことにためらいは感じない。バッハが受けるその名誉の意味するところはもちろん、音楽における最も創造的な行為である作曲について、バッハが偉大 な模範を示しているということがあるだろう。たとえば、遠山一行氏がいうように、ピアノを習ったことがある人ならば誰もが練習するであろうあの「インヴェ ンション」、あらゆる音楽家はそこから出発したはずである。

しかし、私のように、音楽を手段として自分を表現する能力を持たない者であっ ても、バッハを音楽の父と呼ぶ権利はある。他の作曲家の作品、ことに近代以後のそれを聴くことは、私にとって、その作品を自分がどう受け容れることができ るかという問題であると思う。バッハの作品を聴くとき、時にそれとは正反対の感覚を抱く。作品に、自分が受け容れられると感じるのである。なぜかというこ とを説明することは難しい。しかしその感覚を、自分が生まれる前から世界を構成していた要素であるものへの信頼、と言い換えられるのだとすれば、それは確 かに、父性と呼ぶべきものなのだと思う。

バッハの音楽を特別に思う理由に、バッハの作品から受け取る、秩序の感覚がある。これは、バッハ の作品が、造形として秩序だって作曲されているという意味では、必ずしもない。もちろん、バッハの音楽には、そうした作品構造においても周到な用意がある だろう。しかし私は、耳だけでは当然のこと、楽譜を仔細に眺めたとしても、そのような構造を明らかにする能力があるわけではないし、構造を分析することで 明らかになるそうした秩序と、私が感じる秩序の予感は、また別のものなのである。もしもハノンを端から弾いていったとしたら、それは完全な秩序の下での音 の連なりといえるのかもしれないが、そこに音楽的感動を見出す人は少ないであろう。

私が感じる秩序とは、バッハの手をもってあのような作 品を書かせた何ものかの存在であり、予感のようなものだ。それは、人間の幸福と不幸とを見つめ、感謝と罵りの言葉をすべて引き受けながら、沈黙を続ける何 か、それでいながら、私のような人間にとって、世界が単なる無意味な偶然の堆積であることを否定するための、最後の拠り所となるものなのである。ヘッセは 「シッダールタ」で、ヴァズデーヴァの隣に座ったシッダールタが、川の流れの音に耳を傾け、世界の完成と統一を悟る場面を描いている。私はその場面に深く 感動させられるが、バッハに私が感じる秩序の予感を、シッダールタが川の響きの中に聞いたものに重ねることは、許されるだろうか。
ヘッセもまた、バッハを愛した作家であった。

1977 年にアメリカ航空宇宙局(NASA)が打ち上げた無人探査機、ボイジャー1号と2号は、宇宙のどこかに存在する私たち以外の知的生命に対して、私たちの存 在を示すために、人類に関する様々な情報が記録された金属製のレコードを搭載しているという。そこには55の言語でのあいさつ、多くの自然音や、世界各地 の様々な音楽が収録されており、その中には、ベートーヴェンの交響曲 第5番 第1楽章などと共に、バッハの平均律クラヴィーア曲集の第2巻ハ長調のプレリュードとフーガや、無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番のガヴォッ トなども収録されている。

ボイジャー1号と2号は現在、ほぼ太陽系を脱し、それぞれ太陽から約170億kmと140億kmの地点を旅して いる。それらはどこかの恒星の方へ定まった進路を有しているわけではないけれど、もしも最も近い恒星系であるケンタウルス座アルファ星に向かったと仮定し た場合でさえ、そこへたどり着くにはあと8万年はかかるという。私たち以外の生命がバッハに耳を傾ける日が来ることがあるとしても、そのとき、おそらく私 たちは既に存在していないだろう。

人の手になるものが、バッハの音楽を載せ、これから何万年か、もしかすると何億年もの間、恒星間の静け さの中で、それ自身もまたささやかな天体となり、星々の運行を統べる秩序に与る姿を私は想像する。その光景は、バッハの音楽に似つかわしいと思う。私に とってバッハの音楽は、私の貧しい理性をはるかに超えた、宇宙を満たす秩序と測り合うことのできる、特別な音楽なのである。


竹西寛子は、ユリイカでバッハが特集されたとき、そこに掲載されていた「バッハ礼讃」という短いエッセイを読んだのがきっかけで好きになった作家である。

こ の本の内容は、著者が好きな詞華を引用しながら自由に書いた比較的短い随筆を編んだもので、昭和63年から平成6年かけて、朝日新聞に連載されたものとい う。古典に通じる著者らしく、取り上げられているのはほとんどが古語で書かれた古典文学で、なかでも短歌と俳諧が多い。

古文など、高校の 授業以来ほとんど読む機会もなかった。私は恥ずかしながら、古文を何かしなびた暗号のようにしか考えていなかった。この本は、そうした私の貧しい認識を まったく改めてくれた。ひとつ例をあげるとすると、たとえば、本の扉を開いてすぐに収められている随筆「涼しさを」で紹介されている蕪村の句がある。
涼しさや鐘をはなるる鐘の声
梵鐘がつかれたときの時間は、不思議に引き伸ばされているように感じる。その感覚が、見えるはずのない音を「はなるる」とすることで、こんなに簡潔な表現の中に納められている。そのたった一語の持つ喚起力の強さに、驚かされた。

著 者の作品の選び方は、私のような古典の素人にとっては大変ありがたい。ほとんど知識がなくとも、辞書や注釈の助けを借りることなく、原文の魅力の(全部と はいわないまでも)相当な部分を感じ取ることのできる作品が多く選ばれているからだ。そうした選びができるのも、著者の古典に対する教養の広さゆえなので あろう。

そして、私にとってこの本が大切に思える最も大きな理由は、著者が詞華について語るとき、自分の感銘から決して離れていないこと だ。解説や注釈によってその詞華が優れていることを証するのではない。詞華の言葉が自分にどのように働きかけ、それに自分の感情がどのように応えるのか を、澄んだ文章で記している。それを読む私は、古典を読むとはどういうことなのかを知ることができると同時に、竹西寛子という作家自身に出会うことができ る。

たとえば、松尾芭蕉門下の俳人である内藤丈草が、師である芭蕉の死後、その墓にもうでて詠んだ句
陽炎や塚より外に住むばかり
について、次のように書いている。
「師 は塚の内に、この身は塚の外にあるだけの違いだという認識は、悲哀をわが身ひとつのものとして他を拒んでいても、又、師弟の絆に、優越感だけでつながって いても生まれはしないだろう。深い喪失感がおのずから客観化されて、すでに死者生者の垣をはらった次元に生きている丈草に私は惹かれる。
青蚊帳の 家が爆風で崩れてから四十六年。あの日と同じような酷暑の一日、電車で多摩川の鉄橋を渡った。数日前花火大会でにぎわった河原も人影はまばらで、中州の緑 を抱くようにして川は流れていた。生者にはいつでも逢えるとは限らないけれど、死者にはいつでも逢うことができる。そう思ってみてもやはりかなしい夏であ る。」
被爆者である著者は、夏の歌、夏の句に、どうしても自分の悲しみを重ねてしまうのであろう。読み手の固有 の体験をもって作品を語ることは、解説とは違う。しかし、鑑賞とは結局、そうして自分自身を作品に照らし合わせることでしかできないし、そうでなければ意 味がないものだろう。

また、そうして作品を語るとき、作家としての著者の姿勢も自ずからにじみでてきて、それも興味深い。たとえば、和泉式部の歌の分かり易さについて書かれた箇所に、次のような文もある。
「分かり易さは、作品内容の単純幼稚を意味しない。平明な表現に引け目を感じることはないと思う。恥ずかしいのは、思わせぶり、複雑や高尚、深遠をよそおった曖昧であろう。」
その通りだと思う反面、自分を省みて不安にもなった。

私 は読書が好きだ。でも蔵書は少ない。大抵は借りて済ませてしまって、どうしても手元に置いておきたいものだけ後から買うことにしている。この本は、そうし て手元に置いて、繰り返し読んでいる数少ない蔵書のひとつ。古典文学の手引きとしては、これほど優れたものもなかなかないのではないか。

最後に、文中で引用されている詞華のなかで、特に好きになったものを少しだけ紹介する。
月読(つきよみ)の光を待ちて帰りませ山路は栗のいがの多きに(良寛)

桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける(紀貫之)

真萩散る庭の秋風身にしみて夕日のかげぞ壁に消えゆく(永福門院)