歌人の穂村弘と文学者(主に作家)との対談集。
とはいっても、私は穂村弘という人のことを本書を読むまで知らなかった。地元の図書館の蔵書を「竹西寛子」で検索したところ、該当図書の中にこの本を見つけた。竹西寛子が本書の対談者のうちの一人だった。


対談の相手は、高橋源一郎、長島有、中島たいこ、一青窈、竹西寛子、山崎ナオコーラ、それに川上弘美。恥ずかしながら私がちゃんと作品を読んだことがあるのは竹西寛子だけだ。だから、他の人ならもっと本書を楽しめるのかもしれない。それでも私は十分面白かったけれど。


本書の中で穂村は、異なる対談相手に対して繰り返し「自分たちは先人以下ではないのか」という危機感を語っている。例えば穂村は、次のように言う。

「そこにある夢の総量が違うし、絶望の大きさ、希望の強さ、欲望の強さも違う。だから、同じ人間の同じ形式の言葉なのに、そこにあるカオスとかそういうものが(斎藤)茂吉や(与謝野)晶子とは全然違うというのが否応なくわかっちゃう」(「うたと人間」竹西寛子との対談)
「今我々が、お母さんが死ぬときに「死にたまふ母」とか、狂ったようにバーッと連作に なるとか、白い鳥を見て「白鳥は哀しからずや」って、心の叫びとして言語化できるかというと(中略)もうそのずっと手前でそういう叫びが成立しなくなって いる。それは叫んだ者が強いわけですが、それができない。何か濃度みたいなものが違ってしまっている。(中略)なぜその叫びに戻れないのかはわからないけ れども、不可逆的ですね。」(「明治から遠く離れて」高橋源一郎との対談)

穂村の言うことは、直感的には分る気がする。今は徴兵制もないし、食べ物もある。でも、「絶望の大きさ、希望の強さ」はどこまでも人間ひとりの問題なのだから、その点で現代の詩人が戦前の先達に当然に後れるとはいえないと思う。


だから、私は穂村に「なぜその叫びに戻れないのか」についてもっと突き詰めて議論してほしかった。これは文学だけに限らない大きな問題のはずで、それが何故なのか、私もとても知りたいと強く思う。それにたぶん、答えは創作する者にしか分らない。


本の中でヒントになりそうな穂村の発言もある。次のものは、二十一世紀の歌人たちが「言葉の敗戦処理」をしているという穂村の意見について交わされた対話だ。

(高橋)「言語を表現するということは試合に出場するということです。そのイニ ングを一生懸命抑えるとか来た球を打つとかして、確かに勝ってたよなと思ってる。そうやって、先発も中継ぎもベンチに引き上げて、最後に出てきたピッ チャーが、いつのまにか敗戦処理してるということに、気づいたということなんですよね。」

 

(穂村)「『ああ闇はここにしかないコンビニのペットボトルの棚の隙間に(松本秀)』みたいな歌を彼らは 詠む。でもそれは実際彼らがそうしたわけじゃなくて、生まれたときからコンビニがあって、夜でもすごく明るかったら、暗闇に飛ぶ一匹の蛍を言語的な深さを もって命をこめて歌えと言われたってできっこない。」(「言葉の敗戦処理とは」高橋源一郎との対談)

叫ぶことのできない理由は措くとして、ではどうするべきなのか。穂村の次の発言は興味深く感じた。

「僕たちがもし次のステップを考えるんであれば、すごく不自然なことなんだけど、死の 問題を、何ていえばいいのかわからないのですけど、ただ一度の生を限りなく燃えて生きるという以上のアイデアが必要なんじゃないか、もっといいアイデアが あるぞということを見つけた人間が、時代を切り拓く。」(上記「明治から遠く離れて」)

これは、近代文学が「ただ一度の生を限りなく燃えて生きる」ことを至上命題として前進したという見方を踏まえたもの。でも、文学で穂村が言うような ことが可能なのだろうか。特に、短歌のような形式で。個人的な感情を離れて世界を見るという点では、既に和歌において巨大な集積がある。


ただ私自身も、自分の命がこんな自分の一回限りの生のためだけにあるとは思いたくない。どんなに燃やしたとしても、私の一生など高が知れている。だから、穂村がどんな文学を思い描いてそう言うのか、知りたいと思う。


ところで、私が一番楽しみにしていた竹西寛子との対談は、残念ながらあまりうまくいかなかったようだ。穂村と竹西の立つ場所が違いすぎるように思わ れた。「何もない」ことに悩む穂村と、被爆者であり日本の古典文学に深く傾倒する竹西では、社会的にも文学的にも、歴史との結びつきの強さが全く異なって いる。歌人である穂村が和歌にあれほど精通する竹西を迎えるのだから、もう少し和歌・短歌について深みのある対話になってもよかったのではないか、という のが正直な感想だ。


しかつめらしくいろいろ書いてしまったけれど、穂村の言葉は率直で意外性があって、読んでいるだけでとても面白かった。エッセイでもかなり人気がある人のようなので、これからいくつか読んでみようと思う。

5 古典的世界

ここまで、意識とアルゴリズムの関係を理論的に検討してきた結果、意識の働きはアルゴリズム的ではないことが明らかになった。この第5章からは、アルゴリズム的でないものが現実の物理的世界のどこに存在することができるのかを探求することになる。

まずは、量子論以前の古典的物理学の検討である。ペンローズの問題意識は次のようなものだ。
「私が提起しようと試みている論点は、人間の脳が適当な「計算不可能な」物理法則を利用することで、テューリング機械よりもある意味でうまくやれることは考えられるか否か、ということである。」(197頁)
つまり、物理的計算可能性の議論である。古典的物理学の中に、計算不可能な部分はあるのだろうか。

な お、ペンローズは、「決定論」の問題と計算可能性の議論をはっきり区別すべきことに注意をうながしている。例えば、ペンローズはニュートン的ビリヤード・ ボール・モデルにおいて「AははたしてBに衝突するだろうか」という問いは計算可能ではないと推測する(195頁)。しかしこの場合、結果が計算可能でな いとしても、結果は決定論的には決定されているといえるだろう。

ペンローズの結論は、古典的物理学としてここで紹介されているユークリッ ド幾何学、ニュートン力学、マクスウェルの電磁理論、アインシュタインとポアンカレの特殊相対性理論、アインシュタインの一般相対性理論の中には、人間の 脳が利用できるような計算不可能な要素は存在しない、というものである。
「私 がこれまで論じてきたどの物理理論にも、何か重要な「計算不可能な」要素があるとは、とても考えにくい。これらの理論の多くでは、「カオス的」振舞い、つ まり初期データに非常にわずかな変化が起きても結果の振舞いに巨大な違いが引き起こされる事態が生じることが確かに予想される。しかし、前に述べたよう に、この型の計算不可能性――すなわち「予測不能性」――が、物理法則のありうべき計算不可能な要素を「手なずけ」ようと試みる装置に、どのように「利 用」されるのかは理解しがたい。もし、計算不可能な要素を何とか利用することが「心」にできるとすれば、それらは古典物理学の外部にある要素に相違ないよ うに見える。」(245頁)
後の章で示されるように、物理的計算不可能性は量子論の中に見出されるというのが ペンローズの主張なので、古典物理学に関するこの第5章での検討はわりとあっさりしている(だからといって分り易いというわけではないが・・・)。結論を 理解したら、あとは古典物理学に関する素晴らしいエッセイとして読めばよいと思う。ただ、第7章「宇宙論と時間の矢」の前提知識を提供する意味合いもある ので、後でまた読み返すことになるだろう。


4 真理、証明と洞察(後半)

第4章の後半では、ゲーデルの定理によって存在が明らかになった「真であるのにその数学システムによっては証明も反証もできない命題」が、アルゴリズムに よって生成できる「集合」(帰納的集合や帰納的に可算な集合)には含まれない非帰納的数学に属することを考察し、さらにそうした非帰納的数学に含まれる他 の具体例としてマンデルブロー集合、語の問題やタイル張りの問題が紹介される。


あるアルゴリズムによって生成できる集合を「帰納的に可算」であると言う。例えば{0,2,4,6,…}という偶数の集合は、2に0から始まる整数を乗じるアルゴリズムで簡単に生成できるから、帰納的に可算な集合である。


さらに、「ある集合」が帰納的に可算であり、さらに、そこに含まれないものの集合(補集合)も帰納的に可算であるとき、「ある集合」は帰納的集合と呼ばれ る。したがって帰納的集合の場合、ある要素は集合か補集合のどちらかの生成アルゴリズムで必ず捕捉できるということになる。


では、システム内の「真なる命題」の集合は帰納的、あるいは帰納的に可算だろうか。既に見たゲーデルとテューリングの議論から、これは否定される。システム内の「真なる命題」全てを枚挙できるアルゴリズムは存在しない。真なる命題の集合は非帰納的数学に属する。

ここでペンローズは興味深い指摘をしている。

「非帰納的な集合はその性質上、きわめて本質的な点で複雑であるに相違ない。この複雑さが、ある意味で、あらゆる体系化の試みを拒んでいるに違いない。さ もなければ、体系化することそれ自体から、何らかの適当なアルゴリズム的な手続きが導き出されるはずだからである。」(143頁)
これはどういうことか。

例えば、ある要素が集合に属しているかどうかを判定する手続きというのは、図式的に言ってみると、ある要素が集合の境界線のあっちにあるかこっちにあるかを調べるということである。その際、集合の 境界線がもし単純なもの(例えば直線)ならば、判定も単純であり、その手続きはアルゴリズムにできるはずである。しかし、真なる命題の集合のようにその手続きがアルゴリズム化できない非帰納的集合は、集合の境界線も複雑なはずである。
こういうことではないかと思う。

ここでペンローズが再び採り上げるのが、マンデルブロー集合 である。
マンデルブロー集合の補集合(図の白い部分)は、計算結果が発散してしまう値の集合だから、有限回の手続きによって枚挙できる。つまり帰納的に可算である。


しかし、マンデルブロー集合自体(図の黒い部分)は、無限回の計算をしない限り、正確には枚挙できない。つまり帰納的に可算ではない。


このことからペンローズは、マンデルブロー集合の補集合は、帰納的ではないが帰納的に可算な集合の例なのかもしれない、という予想を提示する。私にその方面の知識はないのでよくは分らないが、少し調べてみたところ、この予想の真偽はまだ明らかになっていないようだった。


もしも真なる命題の集合がマンデルブロー集合のような姿をしており、数学者の仕事がアルゴリズム化できないその異常に複雑で美しい境界の奥へ分け入ってゆくものなのだというなら、なんだか神秘的だと思う。


以降は、非帰納的な数学の分野として、ディオファントス方程式や「語の問題」、タイル張りやハミルトン閉路問題がごく簡単に紹介されているが、これは読み物として楽しんでおけば足りると思う。


さて、このようにして第4章で、人間の意識活動がアルゴリズムだけでは成り立たないことが、数学を用いて、数学を例として示された。今度は方向を変え、い よいよ現実の物理的世界のどこに非アルゴリズム的要素が存在し得るのかを探るために、ペンローズの説明は物理学の世界に入ってゆくことになる。