― 映画と詩の論理 ―
「映画で私をなによりも魅了するのは、詩的関連、詩の論理である。詩の論理こそ、芸術のなかでもっとも正当で、詩的なものである映画の可能性に答えるものだと、私は思う。
この詩の論理は伝統的なドラマトゥルギーよりも、私に近い。伝統的なドラマトゥルギーは線的で、論理的に首尾一貫したプロットの展開によってイメージを関連づけるが、出来事のそのような、こやかましいほど<正確な>関連づけは、普通、独断的な見込みと、抽象的な、ときに教訓的な判断に強制されて生まれる。登場人物の性格がプロットを決定している場合でも、そのような関連づけの論理は、人生の複雑さを単純化することに依拠して組み立てられている。」
― 映画と音楽 ―
「映画的映像を真に音楽的なものにするために、音楽は捨てなければならないのかもしれない。というのは、厳密に言えば、映画によって変形された世界と、音楽によって変形された世界はパラレルな存在であり、お互いに衝突しあうからだ。よく響く世界は、映画のなかに適切に組織されたとき、本質的に音楽的である。そして、それこそ映画の真の音楽なのだ。」
― 俳句と短歌 ―
「日本の古典詩が、つねに私を驚かせるのは、それがイメージの最終的意味を暗示することさえ原理的に拒絶していることです。(中略)俳句や短歌は、それ自体のほかにはなにも意味していません。にもかかわらず、非常に多くのことを意味しています。」
― 映画の特殊性 ―
「映画はなによりもまず、刻みこまれた時間である。(中略)ここにこそ、映画芸術の特殊性を見出すべきであろう。他の芸術のなかで、映画と比較的近いのは音楽である。しかし音楽において、時間は全く別の形で解決される。音楽において、生きた素材は、完全に消滅する一歩手前のところに存在している。映画の力は、時間が、絶えず日常的にわれわれを取り囲んでいる現実の素材それ自体との現実的で分かち難い関係のなかで捉えられているという、まさにそのことにある。」
アンドレイ・タルコフスキー(1932-86)
「映画で私をなによりも魅了するのは、詩的関連、詩の論理である。詩の論理こそ、芸術のなかでもっとも正当で、詩的なものである映画の可能性に答えるものだと、私は思う。
この詩の論理は伝統的なドラマトゥルギーよりも、私に近い。伝統的なドラマトゥルギーは線的で、論理的に首尾一貫したプロットの展開によってイメージを関連づけるが、出来事のそのような、こやかましいほど<正確な>関連づけは、普通、独断的な見込みと、抽象的な、ときに教訓的な判断に強制されて生まれる。登場人物の性格がプロットを決定している場合でも、そのような関連づけの論理は、人生の複雑さを単純化することに依拠して組み立てられている。」
― 映画と音楽 ―
「映画的映像を真に音楽的なものにするために、音楽は捨てなければならないのかもしれない。というのは、厳密に言えば、映画によって変形された世界と、音楽によって変形された世界はパラレルな存在であり、お互いに衝突しあうからだ。よく響く世界は、映画のなかに適切に組織されたとき、本質的に音楽的である。そして、それこそ映画の真の音楽なのだ。」
― 俳句と短歌 ―
「日本の古典詩が、つねに私を驚かせるのは、それがイメージの最終的意味を暗示することさえ原理的に拒絶していることです。(中略)俳句や短歌は、それ自体のほかにはなにも意味していません。にもかかわらず、非常に多くのことを意味しています。」
― 映画の特殊性 ―
「映画はなによりもまず、刻みこまれた時間である。(中略)ここにこそ、映画芸術の特殊性を見出すべきであろう。他の芸術のなかで、映画と比較的近いのは音楽である。しかし音楽において、時間は全く別の形で解決される。音楽において、生きた素材は、完全に消滅する一歩手前のところに存在している。映画の力は、時間が、絶えず日常的にわれわれを取り囲んでいる現実の素材それ自体との現実的で分かち難い関係のなかで捉えられているという、まさにそのことにある。」
アンドレイ・タルコフスキー(1932-86)