穂村弘の「どうして書くの?」という対談集について、少し前に一度書いた。先日再読して、あらためておもしろく読んだ。著者の「現代にどんな文学が可能か」という問題意識が相手の異なるどの対談でも一貫していて、発言内容もなるほどと思わせるのである。その点に的を絞って、前回書き足りなかったところをまとめてみることにする。

著者は、二十一世紀の若い歌人が「言葉の敗戦処理」を担当しているという。

「結局、日本中が大きなコンビニの中にあるような状況に、皆が望んでしてしまった近代戦後プロジェクトがあって、彼らはその中に生まれてきた人たちなんですよ。そうすると、彼らにはそれを批判することも許されない。いきなりそこから言葉を立ち上げろと言われてしまっている。」

「ああ闇はここにしかないコンビニのペットボトルの棚の隙間に(松本秀)
みたいな歌を彼らは詠む。でもそれは実際彼らがそうしたわけじゃなくて、生まれた時からコンビニがあって、夜でもすごく明るかったら、暗闇に飛ぶ一匹の蛍を言語的な深さを持って命をこめて歌えと言われたってできっこない。」

言葉と直接に結びついている体験の質という点で、近代以前のような文学はもうできない。では現代には何があるのか。

「負けたくないと思って、じゃ、それに対して我々には何があるのかというと、さっきおっしゃったように、イメージとかそういうもの。でも、そういうものが本当の武器になるのかどうか、確信が持てない。僕たちはやはり今も近代のモードの中にいるわけだから、近代の小説や近代の短歌で感動する。」

ここでの「近代のモード」とは、著者の言葉を借りれば、たった一度の生を燃えて生きたいという、幸福や自己実現が至上の課題となっている価値観をさすようだ。

しかし、武器になりうるはずのその「イメージ」の威力についても、著者はやや悲観的だ。

「他人が他人の書いたもので何を本当におもしろいと思うかというと、他人がきれいだと感じたイメージをごく普通に机で書いたものを読んでもおもしろくない。発話者がよほど天才的な人間でない限り、そういうケースはほとんどないわけです。そうすると、イメージといっても、その後に何かものすごい切迫感とかが張り付いていないと、絶対に享受できない。(中略)そこで切迫感といっているのは最終的には死のことだと思うんです。ということは、それはやはり近代の、生きることは一回きりのかけがえのないことだというモードの中の出来事ということになってしまう。本当にそこから離陸しようと思えば、何も背後に張りつけていない、ただのイメージでも美しくすばらしいんだという主張がないと、やっぱりだめだと思うんです。でも、そんなのって、実際の作品として見たときに、だれも納得しませんよね。」

すると、死についての直接の経験が希薄であるにもかかわらず今だ近代のモードにいる著者たちは、「イメージ」だけで作品を書くことは困難ということになるだろう。

ところで、著者のいう「イメージ」とはどんなものなのだろう。直接言及している箇所はなかったのだが、本書で引用もされている著者の作品(短歌)を読むと、なんとなく分る気がする。

「凍る、燃える、凍る、燃える」と占いの花びら毟(むし)る宇宙飛行士

終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて

近代戦後を乗り越えてきた日本の状況を、著者は野球の試合にたとえている。

(著者)「近代の人が先発して戦後の人が中継ぎでぼくらが抑えなきゃいけないのに・・・。」
(高橋源一郎)「先発・中継ぎ・抑えも全部打たれたのか(笑)。」
(著者)「いや、打たれなかったという話です。生身では、ぼくらの望みどおり零封してきたのに、気がついたら一点も取られなかったことが敗戦だったという大きな裏返し状況ですよね。(中略)この試合には、生き延びることと、生命を燃焼させるという二重構造があって、結局、生き延びる側を優先させる形で完璧に抑えてしまったがために、非業の死のない世界になってしまった。でも文学は生き延びる側には拠ってないから、命の拠りどころがすごく脆弱化してしまった。」

著者の危機感が近代と現代の短歌を比較することで、とても分り易く述べられている箇所がある。

電話口でおっ、て言って前みたいにおっ、て言って言って言ってよ(東直子)

妻を得てユトレヒトに今は住むといふユトレヒトにも雨降るらむか(大西民子)

現代の東作品は、今は別れた恋人だろうか、ケータイで電話すると、相手は作者と分って「おっ、」と応えてくれることを切なく願う気持ちを歌っている。対する近代の大西作品は、新しい妻とオランダのユトレヒトに赴任した元夫を思う歌。どんなに遠くにいてもすぐケータイで話ができる現代とそれ以前では、自分と別離した相手との間のハードルの高さが全く異なっていると著者は指摘する。さらに次。

ひぐらしの昇りつめたる声とだえあれはとだえし声のまぼろし(平井弘)

「これはひぐらしに仮託して戦死者を歌っている。これになるともう絶対に会えない死者への語りかけであり、本来の短歌の機能ってこれが大きかったですよね。(中略)そうなると、才能の問題じゃなくて、言葉の深度が違うとどうしても思ってしまう。でもそれを言うと終わりだから、「おっ、て言って」になんとか与しようとする。ここになんとか価値を見出したいと思うけど、実際に「あれはとだえし声のまぼろし」と音読した時、わきたつような感じがあると、ぼくらの進めた近代戦後プロジェクトはなんだったんだろうということになる。」

では、現代の作家はどうすべきなのか。手がかりになるような発言はあるものの、結論は示されていない。

なぜ芸術はもう近代以前には戻れないのか。私自身ずっと知りたいと思って考えている。私はシベリウスやフォーレの音楽が好きだし、ピエトロ・ジェルミの「鉄道員」やデ・シーカの「自転車泥棒」のような映画がとても好きだ。もうこういった作品は二度と生まれないのだろうか。だから、私は文学にはそれほど詳しくないのが残念だけれど、著者の問題意識には興味があるし、共感する。

本書がおもしろかったので、その後つづけてエッセイ集「本当はちがうんだ日記」と歌集「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」を読んだのだが、自分にとって必要な本とはあまり思えなかった。

穂村弘は、エッセイでは、女性に好かれそうなほのぼのしたダメっぷりが魅力。しかし本書を読む限り、相当の理論家であるうえ、問題の本質を見抜いて巧みな比喩で切り取る能力の持ち主である。評論家としても優れた人だと思う


<関連記事>

「どうして書くの? 穂村弘対談集」(穂村弘著)