「(止まってはいけない)と駆けながら彼は考えた。一塁手が二塁にボールを投げた。その二塁手のぬけ上がった額と厚い歪んだ唇を間近に見た時、江木の肉体はもう良心の命ずる言葉をどうしても聞こうとしなかった。彼は逃げるように足をとめ、怯えた顔で近づいてきた患者を見上げた。
その時、江木は自分に近づいてきたその患者の選手の眼に、苛(いじ)められた動物のように哀しい影が走るのをみた。
「お行きなさい、触れませんから」
その患者は小さい声で江木に言った。
一人になった時江木は泣きたかった。彼は曇った空の下にひろがる家畜のような病舎と銀色の耕作地とをぼんやり眺めながら、自分はこれからも肉体の恐怖のために自分の精神を、愛情を、人間を、裏切っていくだろう、自分は人間の屑であり、最もイヤな奴、陋劣(ろうれつ)で卑怯で賤しいイヤな奴だと考えたのだった。」