私は本が好きなほうだと思うが、実は小説を読むのがあまり得意でない。小説を読むと、なぜ作者はこれを小説にしなければならなかったのかと疑問を感じることが少なくない。小説という芸術の形式は何のためにあるのだろう?それを考える材料にしたくてこの本を読んだ。

今 回読むまで知らなかったのだが、大変に売れた本だそうだ。巻末の曾根博義の解説によれば、昭和29年の初版発行後、瞬く間に10万部を突破したという。平 易な言葉で書かれているとはいえ、このような本格的な文学論がそんなに売れたとは今日の出版界の状況からすると信じ難い話である。

題名は「文学」入門となっているが、内容はまさに「小説とは何か」。詩や戯曲についても記述があるが、それはほんの少しだ。

伊藤は結論として、

「小説は、このように、直接には芸としての約束の上に成り立って、生命というものを、それがある枠にはめられること(社会的在り方)や、失われることに抵抗する(生と死の自覚)形で描き出すものである。」(第八章 下降認識と上昇認識)

という。社会的な制約と死や病という生き物としての制約に対する抵抗という、縦と横の二つの軸からの小説の意味づけが、伊藤の小説論の中心となっている。

これは、なるほどと納得した。
同様の趣旨で、次のような記述もある。

(鑑賞者は)「そこに、絶対に閉じ込められて逃げ道のない生命の苦しみという形で、生命の実質が圧縮されているのを感じる。それはちょうど空気がある機械 の中で圧縮されて、ひじょうに濃厚になるのと同じで、そこに、濃厚に生命というものが実在することを、感じさせるからである。」(第四章 日本の近代社会 と小説)

伊藤によれば、このように、生命が存在することを実感させるのが小説の力だということになる。
「事 実はそのまま芸術になるものではない。芸術は、事実と違って、感動が一つの思想によって統一され、リズムを持った独立した世界を作っていなければならな い。じっさい起った事件をそのまま描くよりも、べつな作りものの筋にしたほうが、作者の抱いている思想をもっと巧妙に表現することができるものなのであ る。」(第三章 近代社会と心理小説)

これが成功しているかどうかが、その小説に対する評価ということになるのだろう。

こ の本を読んで、なぜ自分が小説を読むのがあまり得意でないかが少し分った気がする。伊藤の枠組を借りるとすれば、私は性格的に人間関係についての関心や執 着が薄く、社会的つながりの中での苦しみを実感しにくい。そして死から生を照らして明らかになる不合理にはかなり敏感なものの、これについては小説によら ずとも、事実そのものの記録が十分すぎるほどの衝撃を持っている場合が多い。すると私の場合、横方向でも縦方向でも、小説の力を借りる場面が少なくなって しまうのである。

ところでこの本では、文学(小説)と音楽等の他の芸術形式との対比にも相当の頁が割かれている。そこで伊藤は、芸術の本質としてテーマの反復とリズムによる快感を置き、文学の中にもその要素を見出すことで文学の芸術たる根拠としている。

私にはこれは理論倒れに感じられ、理論家でもあった伊藤の悪い面が出てしまったのではないかと思う。

私 は音楽以外のことはあまり分らないが、少なくとも音楽においては、テーマの反復とリズムによる快感は重要な要素の一つではあるものの、どちらかといえば最 低限の枠組に近い場合が多い。音楽は、音と音の間に人間が感じる緊張と弛緩を操作することで感動を作る芸術であり、人が音楽から受ける感銘はテーマの反復 とリズムによる快感という単純なものでは決してないのであって、もっと非常に微細で複雑なものである。例えばこれは、テーマの反復もリズムもほとんどない 単旋律のグレゴリオ聖歌を聴いた時の名状しがたい感情を考えてみれば明らかだろう。

伊藤は文学の感動と他の芸術の感動に共通項を見出すことで文学(小説)の芸術的価値を基礎づけようとする。しかし、日本語で同じ「感動」という言葉であるからといって、異なる芸術形式による感動が同質であると前提することは、不要であるし、危険でもあると思う。

ただ、自分が関わる文学という仕事の本質とその意義を問い続けた著者の姿勢は、とても誠実だと思う。