裁判員制度が、2009年5月までに実施される。重大犯罪の刑事裁判に私たちが参加し、罪の有無と罰の内容を裁判官と共に決めるという、非常に大きな改革である。

し かし、これほど大きな改革でありながら、世間ではなかなか積極的な議論の対象にならない。そういう制度ができることをなんとなく知ってはいても、「ホント にやるのか」「自分たち素人に裁判なんてできるわけない」くらいの認識である人がまだ大半というのが、実際のところではないか。

今年 (2006年)年2月に実施された内閣府による「裁判員制度に関する世論調査」の結果のうち、「裁判官として刑事裁判に参加したいか」との主旨の質問に対 し、『参加したい』は25.6%(『参加したい』4.4%+『参加してもよい』21.2%)に対して、『参加したくない』という回答は70.0%(『あま り参加したくない』34.9%+『参加したくない』35.1%)であった。
「やりたくない」人が、実に7割。この裁判員制度についての興味や問題意識は、やはり高いとは到底言えない。

そんな雰囲気を汲んでか、法科大学院生でさえ、この制度については懐疑的な人も多いように見受けられる。先日クラスで行われた裁判員制度についての討論では、40数名のクラスのうち積極肯定派は、自分を含めわずか7人であった。
ここまで国民が消極的な意識しかもっていない裁判員という制度は、本当に必要なのか。必要とすれば、なぜなのか。先日の討論を通じて自分が考えたことを書いてみたい。

そ もそも、このような大改革であるにもかかわらず、法案が成立する前に一般的な世間で議論になることもほとんどなく、選挙の争点になったこともなかったよう に思う。私たちからすると、「いきなりそんなことやれと言われても・・・」という気持ちが、どうしても先に立ってしまう。ここから、まだ国民はそのような 制度を受け入れるには未熟であり、それを押し付けてもうまくいくはずがないという主旨の反対意見も出る。

だが裁判、特に刑事裁判について 考えてみると、普段から自分が犯罪の被害者、ことによったら加害者になるかもしれないという意識を持って生活している人など、まずいないだろう。さらにそ の先の裁判という手続の中身にまで思い及ぶ人は、皆無に違いない。だから、税や保険、地元での選挙など、自分の生活との関係を意識しやすい立法・行政に比 べて、司法というものには関心が薄くなるのは仕方がないところがある。そうすると、もし裁判員制度が本当に必要なものであるなら、それは国民の自発的要求 を待っていればよいというものではなく、司法の側から提供し、その意味を国民へ訴えなくてはいけないものだと私は思う。

では、裁判員制度は本当に必要なのか。

先 に書いたとおり、自分が被告として、または被害者として、法廷に立つことなど誰も普段は想像もしないだろう。しかし、裁判員として参加する裁判において は、私たちは罪を犯したとされる者を目の前にし、その言い分を聞き、また被害者やその家族の切実な訴えの肉声を直に聞く。他人事だと思っていた重大な犯罪 が、現実に日々起こっているということを、目の前ではっきりと知るだろう。そして、その加害者をいかに処罰すべきかを思い悩むという経験を通じて、刑事事 件に関して、間違いなくそれまでとは全く異なった現実的感触を得ることができるであろう。
文字情報に置き換えた経験を摂取しながら「自分」についての意識ばかり肥大する今の日本において、裁判員制度は広く、私たちと社会の関わりについての意識を変える可能性さえ持っているように思われる。

そ のような教育・啓蒙目的とも言うべきようなものを制度意義とすることは、「司法改革」という点から見れば筋違いである、という考えもある。しかし、上で述 べたような経験がやがて社会へ蓄積され、受け継がれてゆくとしたら、裁判員制度にはそれだけで十分すぎるほどの意味があるのではないか。この制度によって 改革すべきは、手続や実際の裁判結果の妥当性というよりも、まさに私たちの参加意識そのものであると思う。

「素人に裁判など無理」とい う、もっともな批判もあろう。現に、上記内閣府の調査において、刑事裁判に参加したくないと思う理由について、『有罪・無罪などの判断が難しそうだから』 という回答(複数選択可)が46.5%あったという。確かに、人を裁くことが簡単であるはずはない。

しかし、なぜ犯罪を罰するのかといえ ば、そのような罪を犯す者は罰せられるべきだという、私たちの社会からの要請があるからである。法律は、人間の活動と無関係に存在する数学的真理ではな い。社会が罰すべきだという行為を罰するために法律が定められたのであって、その逆ではない。ゆえに、その社会の構成員である私たちは自らの倫理感覚に自 信を持って裁判員の務めを果たせばよいのであり、それで足りるはずである。事実認定の細かい技術的な部分は裁判官の助けを借りて、法律の素人であっても十 分に妥当な結論を引き出せると、私は思う。

また、日本の誇る「精密司法」の伝統に裁判員制度は似つかわしくないという意見もある。その精 密司法の意味はというと、起訴段階で検察が裁判と同レベルの基準でスクリーニングをかけるということである。つまり現在の日本では、検察が「有罪」と判断 して起訴すれば裁判でもほぼ100%有罪となる。そして裁判官は、検察官によって緻密に組み上げた「物語」である被疑者の調書を、まず任意性ありと見なし てさばいてゆくのである。「51%ルール(有罪の見込みが半々より1%でも多ければ起訴する)」のアメリカ等と比べれば、その精密さは比類ない。

し かし思えば、仕組みとしてその過程の公正さを保障する制度があるわけではない。日本の司法制度は信頼に足るシステムであるかもしれない。しかし行過ぎた信 頼が「無関心」となることは危険である。公平な裁判を受ける権利は、当然に与えられたものではない。ほんの数十年前には、特別高等警察によって捕えられ、 裁判を受けることも能わず獄中で拷問を受ける恐怖が現実に存在したことを、私たちは忘れるべきではない。それは数世紀も前のことなどではないのだから。極 論すれば、日本の民主化は敗戦によってかろうじて達成されたに過ぎない。
権利やそれを定める法律は、物理法則のように普遍的なものではなく、絶えずそれを保持する努力が必要である。今がよいからそれでよい、というわけでは決してない。

裁 判員制度は、法科大学院制度や被疑者への国選弁護人制度の創設等の一連の司法制度改革の大きな柱の一つとして実施される。言うまでもなく、戦後の司法制度 が経験する最も大きな改革であり、これほどラディカルな大改革が一気に行われるということに、私自身が驚いてしまうほどである。このような機会はもう、そ うはあるまい。
私は裁判員制度について、それが唯一であると断言することなどできないが、司法を自分たちの手に引き寄せるための素晴らしい手段であり、チャンスであると思う。

現状では、その制度がもたらす積極面の議論があまりに乏しい。制度をバックアップするための細かい仕組みについては無論山ほど課題はあるだろうが、まず何より、制度の根本的意義をもっと国民に発信する必要があると思う。
私たちは今、裁判員として拘束される時間や守秘義務等の瑣末の議論にとらわれるのではなく、その新しい負担を引き受ける先で得るものをこそ、もっと考えてみるべきではないだろうか。