職場で読書部を作ったりしたこともあって、この一年くらい、読書自体について書いた本を意識して読んでいました。
そして改めて「なぜ読むのか?」と考えると、意外に難しいと感じました。
もちろん、単に「読みたい」という、「ご飯食べたい」と同じ場合もありますが、「読書は、したほうがよいもの」という価値判断もある気がします。
なぜ、読書は価値があるのか?
最近読んだ『読む力 現代の羅針盤となる150冊』(松岡正剛/佐藤優 著)は、東西の論壇130年間を見渡し、指針になる150冊をあげるという本でした。
本はいくつかのジャンルに分けて選ばれていて、例えば「海外を見渡す」であげられた52冊のうち最初の10冊を書くと
『道徳の系譜』 (ニーチェ) 1887年
『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」(テンニエス) 1887年
『民族心理学』(ヴント) 1900年
『歴史と階級意識』(ルカーチ) 1923年
『啓蒙の弁証法』(ホルクハイマー、アドルノ) 1947年
『ミニマ・モラリア」(アドルノ) 1951年
『パサージュ論」(ベンヤミン) 1982年
『コミュニケイション的行為の理論』(ハーバーマス) 1981年
『第三の道』(アンソニー・ギデンズ) 1998年
『情報とエネルギーの人間科学』(ジャック・アタリ)1975年
こんな感じです。
佐藤氏と松岡氏の読書の量と範囲の広さに圧倒されつつも、たぶん彼らのリストによる本は、日本人の9割方は(もっとか?)生きている間にほとんど読まない、または読む力も時間もないだろうと感じました。
世界全体で考えれば、読む人はもっとずっと少ないでしょう。もっぱら、西欧文化のなかでの本なので。
両氏がすさまじい読書家なのはわかります。
ただ、それは彼らのような仕事には役立つのでしょうが、実社会や自分の人生にどう関わるのかは、よくわからない。
あの本にはこう書いてある、誰それはこう言っているということは、読めば「そうなのかあ」と感心はしても、それ以上の感慨はない。
すると一体、この『読む力』は誰に向けられて書かれた本なのかと疑問にも思いました。
ほとんどの人が読まない、読めない本を大量に薦める意味は、どこにあるのだろう?
学者になりたいという人のためなのか、とにかく世界全部を知りたい知識欲のある人たちのためなのか、それとも「自分たちすごい」と自慢したかったのか・・・。
これは結局、「なぜ読むのか?」という疑問にすぐに結びつきます。
吉本隆明の『読書の方法 なにを、どう読むか』は、そんな疑問を感じながら読んだ本でした。
冒頭でいきなり、読書は役に立たない、現実を軽視する危険のある毒であると書かれていて、びっくりします。
本を読むということは、ひとがいうほど生活のたしになることもなければ、社会を判断することのたしになるものでもない。また、有益なわけでも有害なわけでもない。生活の世界があり、書物の世界があり、いずれも体験であるにはちがいないが、どこまでも二重になった体験で、どこかで地続きになっているところなどないから、本を読んで実生活の役に立つことなどはないのである。
また、世界を判断するのに役たつこともない。書物に記載された判断をそのまま受け入れると、この世界はさかさまになる。重たいのは書物の判断で、軽いのは現実の体験からくる判断だというように。これがすべて優れた書物であればあるほど多量にもっている毒である。(本書8頁)
戦後を代表する思想家の言葉としてはかなり意外です。
確かに、ある主張に言葉と論理が与えられた途端に、ごちゃついた現実よりもなにか真実らしく高尚なもののであるかのように感じてしまうのは、危険です。
いかにもそれらしいフリをして全くの筋違いの言説はいくらでもありますから。
でも一方で、例えばヴィクトール・フランクル『夜と霧』で書かれていたように、極限状態で思想が人間の命を救うことがあるのも知っています。
また、(私には特定の信仰はありませんが)もしも神が本当に存在するなら、思想は世界(現実)に直接結びついていることになります。
だから、吉本氏の言葉をそのままは受け取れない。
吉本氏はたぶん、あえて、論壇という場所で理屈をこねまわすばかりになることへの、自戒と警告の意味で書かれたのかなと思いました。
では、私はなぜ読むのか?と改めて考えると・・・
今のところは、あまりに世界や人間についてわからないことが多すぎるため、それを理解したい、意味づけたいという気持ちのため、というのが一番大きい気がします。
世界を理解する補助線や武器として、自分以外の人の言葉が必要なのだと思います。
その作業の結果の意味のつらなりが、「物語」ということなのかもしれません。
言い換えれば、たぶん、目の前の世界をそのまま、ありのまま理解できる人には、読書や思想は必要ないのでしょう。
そこに言葉を付け加える必要はありませんから。