児童文学を読んで少しさびしかったこと | 今日も花曇り

今日も花曇り

読んだ本や考えたこと、仕事について。

最近、次の読書会の課題図書がミヒャエル・エンデの『モモ』なので、それを読んでいました。

 

子どものころに一度読んでいて、たぶん小学校高学年だったと思います。

本のカバーにも「小学校5・6年以上」と書いてあって、ちょうどそのころかな・・・。

でも、内容はほとんど覚えていませんでした。

 

今回読んでみると、かなりはっきりとした現代社会批判でした(「現代」といっても発表されたのは1973年)。

当然そんなことは、子どものときは全然わかりませんでした。

 

今回読んでいて自分にさびしさを感じたのは、上のような点ばかりに注意が向いてしまうこと。

この描写は何を表しているのか、著者はなぜこのエピソードを入れたのか・・そんなことを気にしながら読んでしまうのです。

 

子どものころは、そんなこと考えもしませんでした。

ただ、物語を楽しんでいました。

 

でも今は、一番大事なはずのこの作品の「ファンタジー」をほとんど楽しめなくなってしまったことに気づきました。

作品を分析する面白さはあっても、単純に読んでいて楽しい、と感じなくなってしまったみたいです。

 

宮崎駿監督が書いた『本へのとびら――岩波少年文庫を語る』という本があって、とても面白いのです(そういえば、『モモ』も岩岩波少年文庫)。

 

 

 

それもあって一時期、児童文学を結構読みました。

『宝島』、『ゲド戦記』、『くまのプーさん』、『たのしい川べ』・・。

でも、思い返せば『モモ』と同じように、どうしても大人としての視点で読んでしまい、たぶん子どもが感じるであろう楽しさは、あまり感じることができませんでした。

 

ジブリの鈴木敏夫さんによれば、宮崎駿監督はほとんど児童文学しか読まないそうです。

そして、新しいものも含めて月に3、4冊は読むとも。

すごいなと思います。うらやましい気もします。

自分の中のファンタジーを失わないということが。

 

でも大人だからわかることもあります。

たとえば、著者が子どもに手渡したいと考えているものが何かということ。

またたとえば、子どもを楽しませるために著者が払っている努力や工夫。

 

私は、読書は著者との対話だと思っているので、大人になって、大人である著者と初めて対話できるとも感じます。

子ども時代には戻れない、当たり前すぎるそのことが、児童文学を読むことで思いもかけず実感されました。

仕方がない、そうして時間は流れていくんだと思いました。

 

こう書いていてふと、時間の花にモモが見た美しさは、こういうことだったのかなと思いました。