年末に『嫌われる勇気』と、続編の『幸せになる勇気』という本(いずれも岸見一郎と古賀史健の共著)を読んで、いろいろ考えるところがありました。
ベストセラーだそうですが、私はいわゆる自己啓発本というのが苦手で、この本もその類かと思い込んでいて、読んでいませんでした。
でも実際は、アルフレッド・アドラーの開拓した心理学のエッセンスを対話形式で伝える、真剣で、非常に厳しい内容の本でした。
その後、著者の一人である岸見一郎の『アドラー心理学入門』(こちらが出版は先)も読んだところ、そこで述べられていることの大部分は『嫌われる勇気』にも含まれており、学問的にも決していい加減なまとめ方をされたものでないことがよくわかりました。
その中で、次のような箇所があります。アドラー心理学に基づくカウンセリングをする際に、ある三角柱を使うことがあるそうなのですが、
そのある面には 「悪いあの人」、
別の面には 「かわいそうなわたし」
と書かれているそうです。
「カウンセリングにやってくる方々は、ほとんどがこのいずれかの話に終始します。自身に降りかかった不幸を涙ながらに訴える。あるいは、自分を責める他者、また自分を取り巻く社会への憎悪を語る。カウンセリングだけではありません。
(中略)こうやって視覚化すると、けっきょくこのふたつしか語っていないことがよくわかります。」
(『幸せになる勇気』第1部「心の三角柱について」)
でも、いくらこれを語ったとしても、一時のなぐさめにはなりえても、本質の解決にはつながらないといいます。
思えば、自分の仕事の大きな一部である裁判が、まさにその三角柱そのものです。
裁判は基本的に、いかに相手が悪く、いかに自分が正しいかを、延々と主張し続ける手続だからです。
もちろん、世の中に絶対に必要な手続で、それでしか解決できないこともあります。
でも、特に家事事件など、どちらが悪いとか、どちらの責任とか、いくらそれを争っても問題が解決しないものもあります。
そういう場合、裁判は、問題を無理やり法的な対立構造に押し込め、当事者もいつのまにか「悪いあの人」と「かわいそうなわたし」の視点でしか問題を語らなくなってしまうことがあると感じます。
私はサラリーマン時代、音楽の仕事から方向転換するとすれば、心理学か法律を学びたいと思い、結局法律を選びました。
私は以前から、医学に例えるなら、心理学は内科、法律は外科だと考えています。
外科は切って終わりにしがちですが、病気はそれだけでは治りません。
そう思っていたはずなのに、私もいつの間にか外科的な発想にとらわれていたかもしれません。
私がノア・ハラリの『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』に反発を感じたのも、ハラリが心の問題について、最終的にはテクノロジーの進歩により全て解消される、または無意味になる、と考えているからだったのでした。
最近、歳をとってますます思うのですが、結局、心の問題を真剣に考えない限り、幸せもありません。
その証拠に、「生きるのがラクになる」というようなうたい文句の書籍が世の中にあふれています。
なのに、学校教育ではほとんど何も教えず、社会でも、一種の「処世術」のように扱われることがあります。
でもたぶん、著者の岸見一郎がアドラー心理学についてギリシア哲学から続く哲学の流れにあると感じたように、心の問題は「メンタルヘルス」という問題にとどまるものではなく、人の幸福に関する問題そのものだと思います。
これだけですごく長くなってしまったので、本の全体の感想はまた別の機会に書きます。