憲法についての報道や、様々な意見に接するとき、私にはいつも戸惑いがあります。私自身が憲法のことを知らなすぎるのです。
万世一系の天皇が統治し、ファシズムに染まった国が、一夜にして国民主権、戦争放棄を謳う国になった。終戦の混乱のさなか革命のような変革の中心である憲法はどうやって出来上がったのか。私はほとんど何も知りませんでした。
ロースクールで読んだ憲法の教科書にも、多少は説明がありました。でもそれは法として見た憲法についてであって、私が知りたいこととはちょっと違います。
私はもっと単純に、具体的な事の経緯、生の出来事が知りたいのです。
戦後70年余、常に改憲を主張する声はありました。でも結局憲法は一字たりとも変わっていない。憲法を変えるのは大変なのです。
それが、終戦直後の極めて短期間のうちに、それまでの帝国憲法とは完全に別の憲法が成立した。いま私たちが想像するような普通のやり方では到底できっこない荒業です。でも、一体それがどのようにして行われたのかを、私はほとんど知りませんでした。
一応は法律を学んだ私がその程度ですから、同じような人も多いのでないかと想像します。どんなことでもそうですが、事実を知らずに議論はしたくありません。
そう思っているうちに知ったのが白洲次郎で、白洲のことは前の記事で少し書きました。この本は白洲次郎を縦糸に、憲法改正に関わった人々の行動を小説風に書いたもの。
白洲のほかは、マッカーサー、GHQ民政局長のホイットニー、ケーディス、首相の吉田茂、日本側の草案をまとめた松本烝治らが主な登場人物です。
各人の言動はできる限り史実のとおり書かれているとのことです。出来事の描写は抑制されていて、大げさな演出は全くありません。細かな会話などは創作だと思われますが、確かに白洲なら、吉田ならと思わせる雰囲気が出ていて、自然です。小説とノンフィクションの中間のような、不思議な雰囲気の本になっています。
白洲次郎も活躍しますが、スーパーマンではなくあくまで政府とGHQとの連絡役として描かれており、周囲から見れば現実の白洲は確かにこんな風に見えたのではないかと思えました。
この本を読んで改めて分かったのは、現憲法がいかに短い時間で、GHQの強力な指導の下に成立したのかということです。
GHQから憲法改正を指示された日本政府は、自分たちの草案を元に協議するつもりでGHQとの会合を設定しました。それが昭和46年2月13日。そこで突然に、政府の草案とは完全に別物の英文の草案を示されて、日本側は驚愕し、狼狽しました。
そして、その内容の原則受け入れを回答したのが、わずか10日後の22日です。象徴天皇や戦争放棄という、国の根幹を変革する内容の憲法を、それだけの短期間に国民の議論抜きで、極秘のうちに政府が「やむなし」として、原則受諾を決めたのです。
しかもその直接的な動機は、ここで受諾しなければ連合国により天皇制が廃止され、天皇が戦犯として裁かれるおそれがあるとGHQから宣告されたためなのでした。
日本には、選択の余地はありませんでした。
最終的に完成した憲法は、同じ昭和46年11月3日に公布されました。戦争の惨禍に打ちのめされていた日本人は、平和主義をうたった新憲法を歓迎しました。
こうした憲法成立の経緯も、内容も、客観的には、GHQから与えられたものと言わざるを得ないと思います。GHQにとっては誇らしいことだったかもしれません。ですが、私たちは、自分たちでは民主的な憲法を作り出す能力がなかったことについて、本当は、それを恥ずかしいと感じるべきではないのかと思います。
ただし、現憲法の内容が恥ずかしいと言いたいのでは決してありません。逆に、それによって私たちがこうむった恩恵の大きさを考えると、恐ろしくなるほどです。占領がアメリカ主体によらなかったら、一体どうなっていたのかと・・・。
白洲次郎は、現憲法は押し付けであるとみなしていました。それでも、その理念は実に立派であると賞賛しました。戦争放棄など、その白眉であると。ただ手続として、日本人自身で憲法を作ることが必要なのではないかというのです。
確かに、憲法成立の経緯を知った後では、無邪気に「自分たちの憲法」だと胸を張ることはできない気がします。
私は周りから超穏健派と思われているはずなので、こんなことを言うと知人は意外に思うかもしれませんが・・・。
でも、法は力学の法則や芸術作品ではないので、人間やその作り手から独立して存在するものではありません。背景となる事実を踏まえない議論には意味がありません。
GHQですら、占領が解かれればすぐに改正されるだろうと考えていたこの憲法を、私たちは1字も変えることなく、70年間維持してきました。でもそれは多くの人にとっては、自分たちの努力によって守ったというよりも、憲法を与えられた、当たり前のものとしてとらえ、どんな憲法が自分たちの国にふさわしいのかを真剣に議論することをしないという、単なる怠惰の結果にすぎなかったのではないか、そういう疑問を感じるようになりました。
教育においても、現憲法の素晴らしさは強調されても、その成立過程と問題点については、私は教わった記憶がありません。
「護憲」という言葉があります。格調高い言葉だと思いますが、自ら考えて選び取るのでなければ、単なる思考停止です。どんな問題についてもそうですが、私はそれはどうしても嫌なのです。
先日、日本では人権という言葉が何ら迫真性を持っていないことを指摘した佐藤直樹の「世間の目」という本について書きました。全く別の方面から書かれた本ですが、そこで論じられていた日本人独特のメンタリティの問題は、憲法の問題にも通じるのではと思われました。自分の権利を守るために、国を縛るルールを自分たちで決めるという意識がとても希薄だと思うのです。
この本をきっかけに、憲法成立についての他の本にも目を向けてみて、非常にたくさんの本が出ていることを知りました。そして、その成立過程に関わった人たち自身の著作や公的な記録もたくさんあるため、私たちはかなり正確に史実を知ることができます。
私はこれまでそのほとんどを知らなかったのですが、これらの事実を踏まえて議論をしないと、なぜ現在でも保守の政治家があれほど改憲に固執するか、ということもわからないと思います。