世間の目(佐藤直樹 著) | 今日も花曇り

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先日読んだ「加害者家族」(鈴木伸元 著)で何度も引用されていたので読みました。

著者は、「社会」や「個人」という概念は明治以後の西欧からの輸入品で、本当の意味での社会や個人は、日本にはいまだ存在しない、あるのは日本特有の「世間」である、といいます。

それについて研究するのが「世間学」で、著者は「日本世間学会」の初代代表幹事も務めたそうです。そんな学問領域は初めて聞きました。本書の文体がユーモアたっぷりなので、最初冗談かと思ったのですが、本当に学会があるのですね。

日本の世間特有の性質から起こる出来事が、大小いろいろに紹介、分析されています。
例えば、世間からの非難で当事者が取り下げてしまった隣人訴訟、組織のために死ぬまで働いてしまう過労死、人称や敬語に関する極度に複雑なルールなど。私が本書を読むきっかけとなった、加害者家族へのバッシングも。

指摘されている特質や出来事は、ほとんどの人がどこかで聞いたり、なんとなく感じていることだとは思います。新しい考察があるというよりは、改めて指摘されたという感じです。

その中で、「世間」には権利や人権がないという記述には、あっと思いました。以下は孫引きです。

(世間においては)「人権とか民主主義といった理念が、日常生活の個人のレベルにおいては、何の力も持っていない点に注目しなければならないのである。個々人の間でなんらかの軋轢が生じたばあい、それが本当に人権に関わる問題であったとしても、人権問題だなどというと青二才の者の言葉としか見なされないのであって、人権という言葉は日常生活の中で人の心を動かし、人の行動を変えるような衝迫力をもっていない」(阿部謹也『西洋中世の愛と人格』)

思えば、弁護士のあいだでも、やたらと権利主張する弁護士や当事者を煙たがる空気が確かにある。そのことに改めて思い当たり、がく然となりました。当事者の権利を実現するのが弁護士なのに・・・。

弁護士が他の弁護士を「人権派」と言うとき、そこには確かに、権利を振りかざす頑固で面倒な弁護士、というニュアンスを含む場合があります。裁判所でさえ、頑なな権利主張を煙たがる雰囲気があります(もちろんそんなことは言いませんが)。

法律家でさえ、権利よりも優先されることを無意識に了解している「空気」がある。改めて思い当たり、ショックを受けました。

でも、それを自覚できたからといって、私が突然に自分の権利を実現するために周りに働きかけ、場合によっては戦うことさえいとわない本物の「個人」になることはできないのです。想像できない。そういう意味で、私は決定的に日本人なのでしょう。

これを本当に変えていくこと、しかも自分だけではなく国全体を変えるなんて、困難というよりも、不可能なのではないかとさえ思ってしまいます。

ただ私自身は、「世間」基準から外れた他人の言動を封殺する国ではあってほしくはないと思います。

そもそも、こうした「世間」は変えた方がよいのでしょうか。「世間」によって保たれる平穏というものも、確かにあるからです。「うるさい日本の私」や「私の嫌いな10の言葉」で日本の世間をシツコく糾弾した哲学者の中島義道でさえ、外国から日本に帰ってきたとき、日本人の思いやりや気遣いに感動したと書いていました(確か「ウィーン愛憎」で)。

個人の自由や欲求を制限して世間を優先しても、その結果世間から提供される生活の平穏が実感できれば、納得できます。
でも、相変わらずなんとなくの世間はあるのに、セーフティネットとしての世間は機能しなくなっている。否定されている、奪われている、制限されているといった漠然とした感覚だけがある。それが、すごく鬱々とした今の日本の雰囲気につながっていると感じます。

実はそれに近い指摘が本書の一番最後に少しだけありました。

「いま政治の世界で主張されている「構造改革」や「グローバル化」がまちがっているのは、「社会」のないところに、無理やり「社会の論理」をあてはめようとしているからである。「世間」にはもちろん負の側面もあるが、あきらかにこれまで、弱者にたいする一種の「セーフティネット」の役割もはたしてきた。そこに「社会の論理」を貫徹させれば、日本は「強い個人」のみしか生きられないようなひどい国になってしまう。」

いつからか、「自己責任」という言葉をやたらと目にするようになりました。私はこの言葉の安易な使用が大っ嫌いなのですが、たぶんその理由は、上で書かれたことと同じなのだと思います。

この点について本書では、本当に指摘だけで、全く展開はされていません。とても重要だし興味もあるテーマなので、著書の他の著作も読んでみたいと思います。