映画「インターステラー」(クリストファー・ノーラン監督) | 今日も花曇り

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クリストファー・ノーラン監督の「インターステラー」という映画をDVDで観ました。ノーラン監督は、「メメント」以来好きな監督です。

本格派のSFとしては長く名前が残る名作だと思います。細かいところまで監督のこだわりでいっぱいの、作り手の気迫を感じる作品でした。

「2001年宇宙の旅」や「惑星ソラリス」が好き、「スターウォーズ」や「アバター」をSFと言われるのは心外だ!という人に薦めたい映画です。

ストーリーやSFとしての道具だてはそれほど目新しいものではないかもしれませんが、映像の迫真性と美しさが圧倒的でした。他の惑星の海の超巨大な波、ワームホールとブラックホールの描写、その3つだけでも十分観る価値があると思います。

映画なのでどうしても突っ込みどころはたくさん出てきてしまうのですが、そこは映画だからと割り切って、星間航法(インターステラー)の旅を楽しんだほうがよさそうです。

ただ、人間を超える存在の意図を「環境問題で困っている過去の人間を助けてあげる」という分かり易いものに設定したため、「2001年」で感じたような、人間をはるかに超える、その意図さえ人間には図りかねる何かに出会ったという衝撃と比べると、映画としてちょっと弱くなったと感じました。

ノーラン監督はその「2001年」に多大な敬意を払っているようで、ちょっとやりすぎでは?と思うほどに2001年へのオマージュが溢れています。

印象的なのが音楽で、有名な「ツァラトゥストラはかく語りき」の序奏と同じパイプオルガンの低音で最初の場面が始まり、ラストでは、パイプオルガンの弱音がやはりツァラトゥストラの序奏の終わりと同じ「ラシドー」を奏して閉じられます。
全体に、ハンス・ジマーの音楽はとても良かったです。

でも不思議ですね。
この映画で描かれたような宇宙の光景を、私は見ることなく確実に死ぬでしょうし、たぶん将来も、人間は誰一人それを見ることなくこの星の上から消えるでしょう。

宇宙に比較すると人間は本当に塵以下でしかなく、人間がいる意味なんて、どこにもないと感じます。

でもその人間が、こんな小さな星のそのまた卵の薄皮のような地殻の上に一瞬生きているだけの人間が、宇宙の始まりやブラックホールの内部で働く物理法則をも解明しようとしています。すごいことだと思います。

ある日私達が顕微鏡でゾウリムシを観察していて、そのゾウリムシがいきなり「資本論」を書き出したらびっくりしませんか?宇宙の中で人間がやっていることは、それくらいのことではないでしょうか。

この映画の中でも盛んに出てくる一般相対性理論を打ち立てたアインシュタインは、「宇宙について最も理解しがたいことは、それが理解可能だということである。」という言葉を残しているそうです。

確かにそうだなと思います。たとえ物理法則が、人間に理解不可能な形式であったとしても、人間はそれに文句をつける権利なんて何もないのですから。