こんばんわ!NeeDsの米田心平です。
「気にする」と「気遣う」の違いはなんだろうと考えていました。
空気が読めない、察して合わせる能力がない、という指摘を前々からされておりまして。
なんというか、変に目立ちたいとか、波風立てたいとか、場の空気を乱したいと思っているわけではないのですが、そういう「周りの雰囲気を読んで合わせる」ということにストレスを感じていたので、「ストレスに感じるくらいだったら無理に合わせたりしない。自分らしく振舞うことの何がいけないんじゃ!」なんて、意固地になってその指摘を素直に飲まずにいたのでした。
でも今日、改めて相方である康平に指摘されて、自分なりに反すうしてみました。
その中でピンときたのが、「気にする」ことと「気遣う」ことは違うんだということでした。
みんなが指摘してくれていたのは、「もっと気遣うことを身につけな」ということで、「もっと周りを気にしな」ということではなかったのではないかと。
「気にする」ことと「気遣う」ことの違い、それは、根底にある価値観が「わたし」と「あなた」のどちらを重視しているか、つまり、「自分本位」なのか「相手本位」なのかということだと思います。
おそらく「気にする」とは、どう見られているかとか、どうしたら嫌われないかとか、そういうことを根底に置いて相手を見ることです。
それは相手を見ているようでいて"その人そのもの"を一切見ていません。その人が見ているのは「わたし」です。その人に映る「わたし」を見ている。つまり自分にしか関心が向かない「自分本位」な価値観が根底にあるのです。
「気遣う」とは、そうした「自分本位」の価値観、自分というものへの執着から脱して、自分を承認し了解して消化することで安定感を得て、その先で純粋な関心を相手に向けることではないのかと。「わたし」というものを意識することなく純粋にその人そのものをありのままに見ること。本当の意味で「相手本位」であることなのではないか、と思いました。
本当に心の底から自分を自ら承認して安定することができているならば、相手を気遣い、相手に合わせ、相手を立てることにストレスを感じることはないはずです。
そして得てしてそうした価値観を人は敏感に察知するもの。「この人本当は"わたし"になんて一切関心が無いな。興味があるように話を聞いているけど本当に興味があるのは"自分自身"だけだ」と察するものでしょう。
逆もまた然りで、「この人は本当に"わたしそのもの"に純粋な関心を寄せてくれている。耳を傾けてくれている」と感じるものだと思います。
そうした相互の純粋な関心の寄せ合いが、より効果的なシナジーを作り出すものだと改めて思い当たりました。
自分をちゃんと承認してあげる、消化し了解して、純粋に関心を「相手そのもの」に向けること。
難しいかもしれないけれど、取り組んでいきます。
まず最初の一歩は、いつだって自分から。