みなさんこんにちは!NeeDsの米田心平です。

先ほどアイスココアを買いました。

アイスココアと言うと、石川啄木の詩「ココアのひと匙」がよく頭に浮かびます。

果てしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて
そのうすにがき舌触りに、
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしきこころを。

この詩から、啄木の「相手を理解しようとすることに徹する」という姿勢が見えて、それが印象に残っています。

僕らはいつも自分のレンズを通してものごとを見て、判断して、そうやって生きています。本当の意味での真の俯瞰のレンズでものごとを見ることは人間には不可能だと言われています。

つまり、僕たちは1人の例外もなくみんな自分自身が意味付けした、主観の世界に生きている、らしいです。

そんな中ではいつも僕らは自分のレンズが一番正しいと思い込んでしまったり、錯覚してしまいがち。自らのフィルターを疑い、相手の立場に立ってみる、理解しようと努めるということを怠ってしまうように思います。

自分が正しいのだと思い込み、それを基準に全てを見て、聴いて、喋って、行動する方がずっと楽ですからね。

本当の意味での正解不正解はこの世界にはありません。だったら、自分のパラダイムに染まっていたい。楽していたい。その気持ちがすごくわかります。

でも、お互いに何かに対して心からの合意に至りたい、何かを成したいと思うのなら、そうした自分本位の姿勢では決してうまくはいかない。互いが互いを幸せにし合う関係を築きたいのならば、互いに相手を理解しようと努める姿勢が必要なのではないでしょうか。

「あなたが理解してくれたら、わたしもあなたを理解しますよ」
ではなく、まず自分が理解しようと徹する。何事も人との関係づくりは「自分から」ですよ、と、そんなことをこの詩は伝えてくれているように感じています。

「テロリストにはテロリストの心がある。テロリストの正解がある。それは一体どんな心だろう。どんな人間なんだろうか」と相手を理解することをしようとし続けた、そんな1人の詩人を感じた瞬間でした。