、人の、もともともつ、美意識とはなにかということ。
インターネットも、テレビも、情報もあふれていて、美も、意識も、情報として変換されたあとに、人々に届く。
情報であったり、知識になる前の、人としての、ピュアなかんかく、感情、感動、は、文化や気候、生活によって、まったく違う。
それを単純に、西洋、東洋としての違いに焦点をあわせてみると、
歩くときに足を守るもの
物を運ぶときに使う道具
これらの決定的な違いは、 人の動作、昨日から離れたときの、物の形。
人が離れると、着物は四角い布、 洋服は、人がいなくなっても、人の形をしてる。
下駄も、人が離れたら四角い木、風呂敷は、四角い布。
一生三宅です、a pieces of clothesの発想です。
今の、一般的に考えられているデザイン、という発想は、20世紀に生まれたものだそうです。
form follows function、
でもその前何百年もものは繰り返し作られ続けていて、でもそれは、デザイン、の概念とは違うものです。
ヨーロッパは装飾、スタイル、文化 どんなディテイルで、どんなスタイル、スカートが身近だとか、カフスがどうとか、フリルがどうとか
東洋は、生地の織りやプリントなどを突き詰めて発展させてきました。形、という意味では、そこまで大胆な変化はありません。
ヨーロッパの生地の技術などのほとんどは、もともと、インド、中国、日本、などなどのアジア諸国から学んだものを発展させてきたものです。
私が去年感じ続けてきた、違和感は、ヨーロッパ的な、形 へのこだわりの強さでした。
droogなダッチデザインの印象のオランダですが、うちの学校では、DESIGN=VORM GEVING 英語で言うと、form giving 形を与える、です。
でも、私は形は重要じゃない、となぜかずっと思ってました。
私の作るものを、ミニマルだと、みんないうことが不思議でした。
でも無駄なものはいらないとおもう。形は結果でしかない、それは日本の美意識そのものなんだと、日本とヨーロッパの歴史的な衣装やものを比べると気づいた。
なんだかよく分からないけど、華美でなくても、はじめの印象が強くなくてもそれを使ったときに、そのオブジェクトそのものよりも、またそれを使う人、サブジェクトそのものよりも、美しく見える、そういう美しさを産むプロダクトが、いいデザイン、だとおもいました。
これまた深沢直人的な発想の影響ですかね。
そしてまた、日本の 間 という美意識でもあるのかもしれません。ものそのものの形をかえるわけでも、人そのもののかたちをあえるわけでもなく、もの、とひと、のあいだの空間を、自然発生的な結果、を、美、と考えているのだと思う。
1960年以降の西洋のデザインは、この 間 を取り入れたヨーロッパ的な装飾的な美とあいまって、
形は機能に帰属する、みたいな発想に結びついたことは、推測でなく事実だとおもいます。
ということで、日本の哲学を元に、ヨローっぱの分析的で、サブジェクトに向かって形を作っていく姿勢を基本として、さまざまな実験をしていくことで、自分なりのものを作って生きたい、とひそかに考える23歳。
ここまで読んでくれた方は、相当人の話をちゃんと聞いている人だと思います。
私は文章を書くのが苦手ですが、これをどう英語にしても、伝わりません。
紙に書いたら、伝わりました。絵もいっぱい載せました。
コミュニケーションは言語だけではないんだよ、といってくれた先生がいました。
素敵な先生がいてくれて幸せです。
と、考えていたら、パソコンのなかに、18歳のとき、ロンドンで作った洋服がパソコンからでてきたのでのせてみます。
なんだかあんまり覚えてないけど、店のディスプレイとか、いろんなものが積み重なって、陳列されてる様子を見て、それをひらいたらぜんぜん違うものになったらおもしろいかな、とおもって作りました。
今考えると何でこんなものを作ったのかさっぱりわからないけど、そのときも、パターンもろくに引かず、直線的なジーンズをひたすら形作っていた自分をおもいだすと、これもやはり、日本的だな、とおもう。
オリガーミ?
あまりあたまでっかちにならずに、無鉄砲な勢いも忘れたくないな、とも思いました
おわり。