不安、不満、虚しさ、恐怖、憎悪、嫉妬などを、完全に見守ることが。「ニルヴァーナ」すなわち「絶対幸福」の出発点なのである






悟りの直前には、必ず血液もその他の各種のエネルギーも、人体頭部に向かって逆流する。いわゆる生物学的健康状態、すなわち頭寒足熱と正反対の状態が起こらねば、霊的開眼はありえない。霊的開眼は、いわゆる人格円満だとか、心身の健康だとかとは何の関係もない。禅が単に丹田力を旺盛にして生命力をつけ、精気溌剌たる状態を目指すだけのものであったら、神に出会うことは断じてありはしない。悟り、神、ニルヴァーナ、、、これらの実現は、悉く自然的生命としての人間機能を逆転することによってのみ可能なのだ。肚ばかりできて定力豊かな禅者で、真性の見性眼のない人は、動物的安静状態にいる低能児にすぎない





私達は、秩序がカオスをカオスたらしめ、カオスが秩序を秩序たらしめることを想起せねばならないだろう。

デモーニッシュのダイナミズムが
ハーモニーを呼ぶのだ
のどかなハーモニーこそが
デモーニッシュな陶酔を
産んでくれるのだ




クンダリーニは、
あらゆる個生命体の生命力である。
クンダリーニは、
あらゆる人々の根源的生命欲である。
クンダリーニは、
ただ一人孤独である人間の生きている所以である。
クンダリーニは、
千々に乱れたハーモニーそれ自体である。
クンダリーニは、
ムラダーラ・チャクラの中に眠っているニルバーナへのジャンプ力である。
クンダリーニは、
この多様多元の存在界のあらゆる戯れである。
クンダリーニは、
生命進化という夢の原動力であるとともに、喜怒哀楽生々化々そのものである。
クンダリーニは、
血わき肉おどるエネルギーである。
クンダリーニは、
色即是空の色である。
クンダリーニは、
尾骨神経節の中にあるデーモンである。
クンダリーニは、
至高の愛欲・あこがれである。
クンダリーニは、
マーヤーである。
クンダリーニは、
ニルヴァーナである。
クンダリーニは、
クンダリーニである!
さあ、夕暮れの静けさを味わおう。
酒の酔いをほろほろと楽しもう。
苦しみを苦しもう。
楽しみを楽しもう。





安心には不安があり、
愛着には憎悪があり、
快楽には苦痛がある。
そこで、私達はしかたなく
あらゆるものからの解放を欲望する。
解放を求めることが
根源的な束縛にもかかわらず
私達は解放を求めなければならなくなる。
何故なら、私達は
完全なる解放から産まれてきたからだ。

絶対
完全
至福
自由

なるこれと一つであったことを知って
私は、こう断言することができる。
 あらゆる個体生命達は
 これを求めて
 旅しているのだ。





あんたは、本当は消えたいんだ。
けれども、うわっつらでは
死にたくないと思っているわけだ。
それでも、あんたは消えたいんだ。
余りに素晴らしいことを予感するから、
あんたはプルプルふるえる。
欲望は、欲望を消すことを欲望する。
消えたところが、至福であることを
あんたは、ほんとは知っている。






私は終って、、、、、
私はもともとなく、ありとあらゆる戯れそれ自身だ。
これは詩的表現ではない!
私は、ありとあらゆるものそれ自身だ。
ニルヴァーナと、一本の鼻毛とは同じそれ自身だ。
あいうえおは、ニルヴァーナだ。
ニルヴァーナは、オナラ・ブーだ。
スモッグは、ニルヴァーナだ、、、、

このことを断じて理解し、自分勝手に納得するなかれ! 






なまじ、自我が唯一の自分だと思ったが故に、ありとあらゆるバカげたことが起こっているのだ。

今、大切なことは
ただ一人の
絶対完全、永遠無限人間であることが
自分自身であることに
目覚めること以外にありません。
そして、それには
いわゆる人間と称するものの限界性を
とことん知り尽くさなければなりません。
なぜなら、本当に正直になれば、
その限界をいやという程知っているに違いないからです。
 

byダンテス・ダイジ