「わたしの知性」とは言い得る
「わたしの感情」とも言い得る
しかるに「わたしの理性」とはほんとうに言い得るだろうか?
理性とはいわば全霊で、あるいは全霊に耳をすましているような状態
そこに「私」はいない
「私」がいないゆえに「わたしのもの」が何一つ無い
そこで初めて「いっさいは一なる神のもの」とゆう信仰の兆しがあらわれてくる
知性とゆう論理は黒を白とも言い含める技を得意とする特性を持つので信仰には不向きだ
感情とゆう情熱は「好きになったものを信望する」とゆう偏愛性を特徴とするゆえいつだって(知性と同じく)だまされやすい。もし感情が唯物論を愛した場合、そこに神はいない(ちなみに唯物論とゆう生命なき思想は分断・カテゴライズを得意とする知性特有の産物である)
かえって「私」とはなにか?
それは「時間」のなかで「空間の多様性」を、「空間」のなかで「時間の量性」を観る機能のことである
そして「時空」とは「私」の運動なくしては決して現れない代物
つまり「私」とは「時空そのもの」のことである
「わたしのもの」と言いうる知性や感情はもちろん時空における出来事である
以上からもわかるように「私」の信心する神はどこまでも人間の想像の産物でありどこまでも偽物である
神無き時代に神を取り戻すために今一度「理性の機能」といったものに着目されたい
「理性を失う」と「発狂する」はほぼ同義語だとおもうが
それはそのまま
神を失った状態なのである