コールマン博士によれば、「三百人委員会」の意図と目的は、以下のような状況をつくり出すことにある。
①統一世界政府および単一の通貨制度
②統一世界政府最上部には、世襲の寡頭権力階級を置く。
③統一世界政府のもとでは、世界の人口は大幅に削減され、支配階級の役に立つ者だけ一〇億人が残される
④中間層は存在させない
⑤支配階級と、それに奉仕する者だけを存在させる
⑥民族国家・国民国家は消滅し、したがって国境は存在しなくなる
⑦奉仕する者(奴隷)の中で、反抗する者は飢え死にするか、打ち殺される
⑧宗教は、神ではなく悪魔を信仰する宗教だけとする
⑨ID(個人個人を識別する)番号を各人の肉体に刻印する
⑩結婚は違法とし、家族制度は消滅する
⑪マインドコントロール用の麻薬を強制する
⑫すべての富を「三百人委員会」のエリートメンバーに集中させる
⑬大衆の奴隷労働収容所を運営できるだけの食料とサービスの生産が許される
⑭工業は完全に破壊される
⑮農業は「三百人委員会」の手に握られる
⑯現在の都市住民は強制的に遠隔地に移動させられる。拒否する者は皆殺し。ポルポトカンボジアはその実験である
⑰二〇五〇年までに、少なくとも四〇億人の「ムダ飯食い」が除去される
⑱非エリートは現金・通貨を手にすることができない。すべての売買は個人管理IDカードでなされ、反逆者はカードの使用を抑止される。または没収される
飽食の経済を操るユダヤ世界権力が崩壊する日辛うじて日本は生き延び、21世紀を飛翔する 太田龍より
ここ(地球)は、物理的にいろいろな制約がある。しかしだからこそ、その代わり、何を思考しようが、勝手なのだ。思考が物質環境に直接影響しないために、思考というものがここでは制約や管理をされていない。通常の平均的次元の宇宙では、思考と物質の間にこれほどの「絶縁状態」はない。つまり通常の一般的な次元世界では思考したものがダイレクトに形体化しやすい。まるでそれは夢の世界のように。地球人にいわせれば、それはまるで魔法のようである。だが逆にそういう世界は「思考内容に制約が加わる」ものだ。というのも、下手な思考内容をすれば一発で全員が共有している意識の環境が破壊されるからだ。したがって地球は物理的には不自由だが、思考の次元では宇宙でもかなり自由な惑星なのである。そういうわけで、一般的な宇宙民族にとっては嫌悪される
ただ、気楽に、ただ存在をも味わい、また死をも味わう。産業や遊園地としての宇宙から足を洗って、「かたぎ」になる。これが、昨今からとりざたされているマイトレーヤのもくろみである。マイトレーヤは、地球の仏教などというレベルの世界の問題ではなく、宇宙そのものの果ての無の領域からやって来る。それは多くの宇宙民族にとっても、嫌な存在であろう。実は、それを待ち望んでいた種族もいるのだが、どっちにしても、ちょうどあなたのエゴが死にたくないようにで、またあなたたちの社会が安全を脅かされるのが嫌であるように、エイリアンたちの多くも、自分たちの存在基盤に脅威になる存在は、許容したくないものだ
道元が経典を読んでいると、ある僧が尋ねた。
「なんのために、読んでいるのか?」
道元は言う
「学んで、仏法で衆生を救うためだ」
僧は言った
「だから、あんた、、結局それは何のためかと聞いているのだ!」
道元は絶句した…
「次は、どれになさいますか?」の質問が次元の番人からやって来るくる。あなたには人間としての記憶しかない。だから、あまりにも多様に、楽しそうな別の存在がある。別の世界があるので間違いなく、目移りするだろう。人間がもういやだ。という人や、自分は人間を卒業したなどと言っていても、そういう者は、人間ではない別の高等生物を選択する。そしていざ生まれてみると、どこへ行っても、さして、そんなに変化はないのだ。科学、文明、世界は、実に無数の世界が宇宙にはある
死んで無意識になるならなんらの問題もありはしない。問題は死ぬと無意識どころか、完全な覚醒のもとに、あらゆる思考が浮上するのだ。もしもあなたが、蛇が嫌いなら蛇が1000匹、ゴキブリやネズミやクモが嫌いなら、それが1000匹、あなたを取り巻く。あなたが恐れるものにあなたは取り巻かれる。そしてあなたが愛着をわずかにでも持つものに、あなたはこだわる
魂の進化のためだというが、では、進化しないとどうなると言うのだろうか?この質問に私のかかわっていた別の次元宇宙の生命体は「進化しなければ死ぬ」と言った。なんと彼らまでもが生存のために進化していた。それはとても創造の遊びと呼べるようなふっきれたものではなかった
過ぎ去った出来事を夢のようだと言える人間が、どうして明日を夢と言えぬのか?
人は知っていることと知ることの中に生きる。それゆえに絶えず無知というものが心の裏で彼らを脅えさせている。だが、「我々は何も知らないから楽である」。人々は出来ることと、出来るようになることの中に生きる。それゆえに、絶えず無力というものが心の奥で彼らを怖がらせている。だが、「我々は何も出来ないから楽である」。人々は楽しいことと楽しむようになることの中に生きる。それゆえに、絶えず倦怠と退屈というものが心の隅で彼らを待っている。だが、「我々は何も楽しまないからこそ楽である」。
我々は楽に生き、楽に死ぬ
人間やことに動物のこうしたいわゆる性、食、すなわち生と呼ばれる現象は、苦楽などと呼ばれる精神活動をもふくめて、実に単純な原理である。それはある一定基準を超えたり、不足すると感覚が苦しいと言い始め、その元の基準に近付くと安心して満たされるのだ。個人の基準を原点として極度に不足あるいは極度に過剰が苦しみの原因だ。適度が安心の原因だ。ところが、生命学的な、あるいは宇宙における原則として、この過不足を助長することが宇宙を活動させるために、より楽しむためには、より苦しまねばならず、より楽しめば、より苦しむということが起きる
度を越したものは常に苦しみになる。例えば、笑うのも度を超せば、苦しい。食べるのも度をこせば、苦しい。暖かいのも涼しいのも度を超せば、暑かったり、寒くなって苦しい。運動もセックスも度を超せば苦しい。このように、実際のところ、楽しみとは、軽度な苦痛であり、極度の楽しみを苦痛と言う。適度な弱い刺激を楽しいと言い、強すぎる刺激を苦痛だと呼んでいるだけだ。だから、苦痛とは、刺激の強度にすぎない。そして、それはあなたの生態学的な許容限度を基盤にして仕掛けられるだけだ。したがって、楽しみは存在しないが、安心ならば存在する。究極の安心とは、それは楽しみが一切ないことだ。楽しみが一切なければ、苦しみも一切あり得ない。これは単なる、ふたつの同じものの表裏だ。苦しみの経験基盤から楽しみが生まれ、楽しみの記憶が苦しみを生む
あなたの生きようとする意志はあなたのものかね?いやいや、違う。それは生物学的なものだ。あなた独自のものじゃない。次にあなたの感覚的、あるいは知的な好みということが、それらは単に育った環境の中で生まれたにすぎない。そして一旦育ったその好みに合うようにあなたは他人や知識や物体を選別して、あなたの好みのものだけを寄せ集めたにすぎない
一本の草が生きているときに、彼らは自分が生きているとは、決して思わない。また、その草が枯れた時、彼らは自分が死んだとも思わない。ゆえに草のような生死へね区別なき無心こそが、生死を超越した意識の手本となる
不快や不安の暗黒の中でのみ育つものがある。それを育てるにはそれを避けようとせず、その中に「いる」しかあるまい。それに負けることだ。それに任せることだ。その中で、己なるものが全滅したときに初めてTAOの種子が現れる。決して、断じて、それは善良な心ではない。それは、ただの無心だ。人々は他人や世界の役に立とうとするのは1000年早すぎる。否、それ以前にまず他人や世界に対して、最低でも「無害である」ことを学ぶのに1000年かけるがよい
人々が晴れた日になると鉢植を光の下に置くのを、私は見てきた。ならば、なぜ曇りや雨の日にもそうしないのか?曇り空や雨を決して草木は嫌っていない。むしろ、曇り日には曇り日にしかない柔らかい別の力が空から注がれ、また雷雨の時には草木はこの上もなく高揚するものである。ひとが人の目に映る光のよしあしの分別をするのに全く関係無く、植物たちは人とは異なる光を見て、受け入れている。草木はすべての天気と仲がよい
草木は自分を草木だとは思っていない。だから私も自分を人だとは思わなかった
生は影のようにして彼らについてまわるのみである。一方、人々は、死が影のようにその生について回っている
廃墟のブッダたち 宇宙から消滅する死に方 より


