宇宙はホログラムではなく「ホロムーヴメント」と表現するほうがふさわしい
わずか一立方センチの空間に、現在の宇宙に存在することがわかっているすべての物質のエネルギーの総量よりもさらに多くのエネルギーが存在していることがわかった
椅子やテーブルは、絶え間ない流れの中にできた『習性』でしかなく、たとえ私たちの目には習性だけしか見えなくとも、流れのほうこそが真の現実なのである
物理学者は素粒子を発見しているのではなく、実は創造している可能性がある
「あなたの脾臓は何かとても頭にきてるわねえ」と彼女はつぶやいた。そして突然、ピンときた。「脾臓をどなりちらしたの?」私は恐る恐るそのとおりだと認めた
気場のほうが必ず脳波より前に反応
「我々は思考の産物である」と釈迦は言った。「我々のすべては思考に始まる
。思考によって世界は創られる」
時間と空間におけるすべての点を内臓した神話上の時空間のある一点という、ユダヤ教の「アレフ」という概念
「何か質問を考えると‥ただちにその答えがわかるのです。それくらい簡単なんですよ。そしてその質問はどんなものでも、何でもかまわないんです。自分が何も知らないテーマについてでも、理解さえできるような立場にはないようなものでも、とにかく何であっても、光が一瞬の間に正しい答えをくれて、理解できるようにしてくれるのです
すべてはどこに意識を向けるかということなのです
客観性から参加型への移行
投影された宇宙 マイケル・タルボット著より
私に起きた最大の幸福。それはそもそも幸福と不幸の区別がなくなったことだ
現実も夢もない。全部現実か、さもなければ、全部夢だ
実に単純な事があなたの不安の原因だ。それは、『知覚そのもの』だ
その社会がもしも、全部が狂人たちが作り上げた狂気のための秩序の産物だったら、その中に適応しているあなたは、立派な気違いだ
どんな大切なコレクションもあなたは死の中へは持って行けない
世間は光明を得た人間には遊び場でも、探求の途上にある人間には、断じて遊び場ではない。それは地獄そのものだ
希望が、ただの一度も光明をもたらしたことはない。絶望がトータルで爆発的な場合に限って、ブッダは生まれて来た。彼らはその日以来、決して希望を持ったことはない
死を忌み嫌う者は、決して雑草の中にもある本当の美しい生命を見ることはない。あなたが払う「死」の分だけ、生はあなたに与えられるのであるから。だから、いわんや心が全面死した者が、万物の心のすべてを受け取ることになっても、それは、あまりにも当たり前の事なのである
世間様とやらが言うところの「不幸な人達」は、実は、最も幸福な位置に飛躍する可能性を持つ。だが、そのための絶対条件は、死、不、無を完全に受け入れることである。すなわち具体的に言うならば、無感覚、無気力、無思考、病、老い、死、これらを完全にまったく嫌がらず受け入れることである。もしも、受け入れたような顔だけして、本心が「生」をどこかで応援していれば、その「心の中の裏切り者」のせいで、悟りの可能性は台なしになってしまう
のたれ死にとは、路上のことや、単に、帰る家がないということではない。どこで、死ぬのであれ、そこに「心の苦」があったら、病院であれ、家であれ、のたれ死にである
死んでも本望だとゆう言葉が出るのは、貴方が幸福の中にいる時にしかあり得ない。一方、あなたの口から「生きていてよかった」という言葉が出るとしたら、あなたは絶望的な不幸の中にいるということである
続/廃墟のブッダたち 輪廻なき絶対無への帰還 EO著 より