ルールのお話 知覚心理学”的”お話その1 | 猫に牡丹

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心を歩く

~内在している自分らしさとの
 出会いとともに
 人生の足取りを
 軽やかに
 しなやかに~

 

あしあとあしあとあしあとあしあとあしあとあしあとあしあとあしあとあしあとあしあとあしあとあしあとあしあとあしあと

 

❀Gat con Peonía(ガトー コン ペオーニア)

~猫に牡丹~

 

いらして下さり

ありがとうございますピンク薔薇

 

あしあとあしあとあしあとあしあとあしあとあしあとあしあとあしあとあしあとあしあとあしあとあしあとあしあとあしあと

 

 

下矢印今回の記事、ラヂオでもお話しています下矢印
 
 
『ルールのお話 知覚心理学的お話その1』
 
 
ルールと聞くと
窮屈とか堅苦しいというイメージが
あるかもしれません。
 
また
スポーツにルールがなければ
試合は成立しないので
必要なもの、というイメージの方も
いらっしゃるかもしれません。
 
 
ここでは
「MY ルール」のお話をします。
 
 
 
意外なことに
「MY ルール」と言いながも
 
自分以外の多くの人と共通する部分が
ほとんどであると
思っていて
 
特別な趣味「寄り」のもの、
家族特有のもの、
グループの独特のもの、
だったりしても
心のどこかで
共通する人が他にもいるはずだと
思っているものです。
 
 
「同じだ」「分かる」と言われると
何だかホッとする気持ちに
なるのではないでしょうか。
 
 
しかし
この
「MY ルール」 =
「自分だけのルール」は
 
歴史上の誰とも
この地球上の誰とも
未来の人類全てとも
 
全く同じになる事は無い、
ということには
 
ほとんどの方は
気が付けていないのではないでしょうか。
 
 
 
 もし
私たちが
『君の名は』
『転校生』
のように
誰かと体が入れ替わる事が出来るとしたら
 
もしかすると
似たようなルールになるかもしれません。
 
 
それでも
全く同じになる事はありません。
 
 
 
入れ替わる前に見てきた世界は違うし
入れ替わってる間も見えてる世界は違うし
元に戻ったあともやっぱり
見えてる世界は違うからです。
 
 
見えている、という「視覚」だけのお話ではありません。
 
 
同時に同じものを同じ角度から全く同じ場所から
見ること、聴くことが、感じること、がない限り
 
 
 
誰一人とも
同じ感覚になることはない
 
本当の意味で共感できない
 
わかりあう事はできないわけです
 
 
 
悲しいと 寂しいと 思われましたか?
 
どうでしたか?
 
 
 
・・・そうでしょうか
 
 
私はこう思います
 
決して
わかりあう事は出来ないのに
もし
分かり合えたように思たら
わかり合いたい人に出会えたら
なんて素敵な事だと思いませんか?
 
 
そして
「本当はわかりあう事は出来ない」
という事が
わかっていれぼ
 
『なぜわかってくれないの?』
なんて質問はしなくなりますね(笑)
 
 
言葉にして詳細を説明したところで
結局分かり合えない、と思う前に
 
黙っていたらなおのこと
誤解しか生まれないと
気がつくでしょう
 
 
思いやりが生まれるでしょう
 
 
 
まずは
 
決して
わかりあう事は出来ないと知る事が
 
幸せへの第一歩ではないでしょうか
 
 
 
 
そして
 
自分以外の人間、誰一人として
自分を分かってくれる人はいない、
のならば
 
あなたを本当の意味で大切に出来るのは
 
あなたしかいないのです
 
 
 
もっと
自分の心の声に
耳を傾けてみませんか?
 
気がつかないふりをしたり
あとまわしにしたり
今感じている気持ちに蓋をしたりせず
 
どうか。
 
 
あなたの心は
誰よりもまずあなたから
大切にされたいと
望んでいます
 
 
 
そして必ず
自分の心を大切にする、ということが
どういうことなのかが分かれば
 
あえて意識せずとも
自然に
自分の周りの人の心を
大切にすることになることでしょう
 
 
結果
 
たとえば
自分を蔑ろにしていたくらいのあなたが
自分のことをを大切にする、
素敵な人になったなら
 
あなたを
知りたい
分かりたい
手伝いたい
という人が自然と増えて
 
あなたの笑顔も
周りの人の笑顔も増えてゆきます
 
 
 
🐈🐈🐈 
 
 
タイトルに「知覚心理学”的”お話その1」と書きました。
学問としてのそのお話ではないことに
気が付いて下さったことでしょう。
あくまでも
「知覚心理学”的”なお話」です。
すぐ次になるかどうかは未定ですが
「その2」も何か他のお話と交えて
書きたいと思います。
 
 
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