『キクとイサム』は、1959年(昭和34年)3月29日公開の日本映画である。大東映画製作、松竹配給。監督は今井正。モノクロ、シネマスコープ、117分。
会津磐梯山麓の農村を舞台に、混血児の姉弟が好奇と差別の中を明るく生きる姿を描いた社会派映画。混血児の姉弟役には、当時一般の小学生だった高橋恵美子と奥の山ジョージが起用された[1]。また、当時48歳の北林谷栄が前歯を抜く役作りを行って倍近い年齢の祖母役を演じ[1]、数々の女優賞を受賞したほか、作品自体も多くの映画賞を獲得した。第33回キネマ旬報ベスト・テン第1位。
高橋恵美子と奥の山ジョージ
監督 | 今井正 |
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脚本 | 水木洋子 |
製作 | 伊藤武郎 角正太郎 |
出演者 | 高橋恵美子 奥の山ジョージ 北林谷栄 |
音楽 | 大木正夫 |
撮影 | 中尾駿一郎 |
編集 | 河野秋和 |
製作会社 | 大東映画 |
配給 | ![]() ![]() |
公開 | ![]() ![]() |
上映時間 | 117分 |
製作国 | ![]() |
言語 | 日本語 |
- 監督:今井正
- 製作:伊藤武郎、角正太郎
- 企画:市川喜一
- 脚本:水木洋子
- 撮影:中尾駿一郎
- 照明:浅見良二
- 美術:江口準次
- 録音:安恵重遠
- 音楽:大木正夫
- 編集:河野秋和
- 助監督:橘祐典
- 撮影助手:松田忠彦
- 照明助手:山本嘉治
- 美術助手:小松乙彦、高木潔
- 装飾主任:金杉正彌
- 製作主任:森谷玄
- 現像:日本色彩映画
- 川田キク:高橋恵美子[注 1]
- 川田イサム:奥の山ジョージ
- しげ子婆さん:北林谷栄
- カメラの男(養子調査員):滝沢修
- 院長さん:宮口精二
- 座長さん:三島雅夫
- お巡りさん:東野英治郎
- 新聞社の人A(記者):三国連太郎
- 新聞社の人B(カメラマン):高原駿雄
- おかつ:岸輝子
- 雑貨屋さん:三井弘次
- 呼び込みの男:多々良純
- 清二郎さん:清村耕次
- 奥さん:朝比奈愛子
- 小野寺先生:織田政雄
- 松田先生:荒木道子
- 巫女さん:賀原夏子
- 尼さん:長岡輝子
- 兎吉さん:中村是好
- 組合の人A:殿山泰司
- 組合の人B:井上昭文(ノンクレジット)
- おかつの亭主:松本克平(ノンクレジット)
- 祭り笛の男A:田中邦衛(ノンクレジット)
- 村の男A:梅津栄(ノンクレジット)
- 祭場の男A:穂高稔(ノンクレジット)
- 酔った村の青年:高津住男[1](ノンクレジット)
- 祭り見物の男:島田屯[1](ノンクレジット)
- 祭り見物の女:戸田春子[1](ノンクレジット)
- 患者:小林十九二[1](ノンクレジット)
- 座員:小笠原章二郎[1](ノンクレジット)
フル動画
いつBAN喰らうか分からないので、早めに観てほしいとのこと。
顔のアップが来るまで素人婆ちゃんだと思ってた
しげ子婆さん:北林谷栄
父ちゃんの写真
弟が渡米
お富さんのタップダンス
預かってた乳児を置き去りにしてイジメ軍団を〆に行ったらサツにどやされた
担任の先生「仕事してないで学校においで」
婆ちゃんと仕事行って来る
テーマ曲がかなり沁みてた
奥の山ジョージ が渡米すると聞いたら
ジョー山中 同じ1946年生まれ
人間の証明 はキクとイサムに呼応してるように見える。
『人間の証明』は角川春樹が『野性時代』創刊に合わせて連載を依頼した(実際には創刊号には遅れて連載開始した)[5]。角川は森村に「作家の証明書になるような作品を書いてもらいたい」と依頼したという[6]。森村は西條八十の詩「ぼくの帽子」の一節に着想を得て執筆を始めた[6]。
当初の読者の反応は低調だったが、角川が映画化を発表してから加速的に人気が出た[5]。
当時の新聞広告には、「読んでから見るか。見てから読むか。」と映画と本の広告がなされた。
角川のゴリ押しで森村誠一 - Wikipedia
その後、赤旗紙面で『悪魔の飽食』シリーズ。
キクとイサムの方は人種差別問題を炎上させようという意図。
進駐軍孤児の体裁を取ってるけど部落・アイヌ・朝鮮人など各方面の延焼を狙ってそう。
「人間の証明」も原作の段階で韓国人ハーフの松田優作を念頭に置いてるように見えるんで、今井正に相乗り。パヨ層岩盤でおカネになるってんで、ここから搾るのは賢い。
ちょっと待て、イサムの渡米ってこれじゃないか?
キクとイサムの違和感
映画を観る前は「菊と勇」のつもりでいた。菊=昭和天皇、勇=いさましい軍人?
戦前戦中かと思いきや、出て来たのが米兵の混血児。敗戦によりハイブリッド化した日本を揶揄する意図がタイトルにはある。差別問題をネタにしたのは核心をボカして、または攻撃の幅を広げるため?
戦前、皇太子時代から盛んに国内各地に行啓・行幸した。1923年(大正12年)には台湾(台湾行啓)に、1925年(大正14年)には南樺太(樺太行啓)にも行啓している。
戦後は先述の通り1946年(昭和21年)2月から約8年半かけて日本全国を巡幸して国民を激励し、各地で国民の熱烈な歓迎を受けた(昭和天皇の戦後巡幸)
第二次世界大戦の終結後、昭和天皇自身の発案により[1]、1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月まで、8年半をかけて全国各地(米国統治下の沖縄を除く、全46都道府県)を行幸した。
当初は日帰り又は短い旅程であったが、次第に10日~数週間に及ぶ長い旅程のものに変化した。行幸は天皇単独で行われることが多く、香淳皇后が同伴したのは1947年(昭和22年)の栃木県行幸、1954年(昭和29年)の北海道行幸の際の2回のみである(静岡県へは同一旅程であるが、皇后単独で沼津市に行啓)。
行幸先各地では、奉迎場(学校・公営グラウンド・駅前など大勢が集える広場)や特産品天覧会場が準備された。行在所(宿泊先)も、各地の公的機関や旧家の邸宅のみならず、保養地の温泉旅館・ホテル等も選ばれている。
1946年(昭和21年)11月13日、終戦連絡中央事務局は連合国軍最高司令官総司令部に対し、巡幸時の国旗掲揚の可否を照会したが「好ましいものではない」との回答を受けた。1949年(昭和24年)1月1日、国旗掲揚が許可されるようになった[2]。
この映画の頃は高度成長で日本人の気分は敗戦直後とはすっかり変わってる。
昭和天皇の巡幸で皇室と国民が一体となり、朝鮮特需で生活向上。もう日本共産党の出る幕はなくなってる。そんな恨みが思わず口をついて出たか。いやそれはない。ちゃんと計算してるはずだ。反天連スイッチがどこかに仕掛けてあるに違いない。
ボボちゃん
中学の時の同級生でボボちゃんと呼ばれてる子がいた。
当時ボボブラジルが大人気で、黒人顔なのとスーパーアスリートなのとで人気者だった。
映画でやってるようなイジメがリアルではマッチョ系に向く訳がなくて、映画のキクみたいな巨漢女子がターゲットになるとか実生活ではアリエナイ。むしろ性格良すぎて人気者だろ!とツッコみながら観てた。
逆に貧困家庭の女子とか内向的男子に対してはシャレにならない苛烈な仕打ち。先頭に立ってたのがボッシー男子だったんで、その辺りのダーク面が暴発してしまったのかも。
みんな病んでたのかも。