3. 陽気な中尉さん
89分 モノクロ 1931年
原題「The Smiling Lieutenant」
監督:エルンスト・ルビッチ
主演:モーリス・シュヴァリエ、クローデット・コルベール
好色家の中尉はバイオリン弾きの美女と恋仲になるが、とあるハプニングから隣国の王女にも惚れられてしまう。
愉快な歌唱シーン満載で三人の恋愛騒動を描いたラブ・コメディ。
『陽気な中尉さん』(ようきなちゅういさん、原題:The Smiling Lieutenant)は、1931年に製作・公開されたアメリカ合衆国の映画である。オペレッタ『ワルツの夢』などを原作とする[1][2]。
監督 | エルンスト・ルビッチ |
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脚本 | エルネスト・ヴァイダ サムソン・ラファエルソン |
原作 | ハンス・ミュラー、 Nux der Prinzgemahl (1905) レオポールド・ジャコブソン、フェリックス・ドルマン、オスカー・ストラウス『ワルツの夢』、 |
出演者 | モーリス・シュヴァリエ クローデット・コルベール ミリアム・ホプキンス チャーリー・ラグルス |
音楽 | クリフォード・グレイ オスカー・ストラウス |
撮影 | ジョージ・J・フォルシー |
配給 | パラマウント映画 |
公開 | ![]() ![]() |
上映時間 | 88分 |
製作国 | ![]() |
言語 | 英語 |
- モーリス・シュヴァリエ:ニコラス(ニキ)・フォン・プレイン中尉
- クローデット・コルベール:フランジー
- ミリアム・ホプキンス:アンナ王女
- チャーリー・ラグルス:マックス
フル動画
世紀末ウィーンとWW1と戦後の夢物語?
世紀末ウィーンの詩人としても辛うじて名を残しているフェリックス・デールマン(ドイツ語版)とレオポルト・ヤコプソンという人物の二人組によって台本が書かれ[3]、1907年3月2日にカール劇場(ドイツ語版)で初演された[2]。
開幕の場面が風変わりであったり、完全なハッピーエンドにはならなかったりと、オペレッタとしてはかなり個性的な展開の台本となっている。ラブコメディではあるが、基本的に恋愛は劇の主題原理とはなっておらず、理想化されたウィーンへの執着という情動が劇全体を支配している[4]。
綴り間違いをネタにしてたのは、そういうことか。
オスカー・シュトラウス(Oscar Straus, オスカル・シュトラウスの表記もあり、1870年3月6日 - 1954年1月11日)は、オペレッタの作曲家。
本来の姓はもともと“Strauss”と綴ったが、著名なヨハン・シュトラウス一家(Strauss)との混同を避けるために、語末のsを一つ省いたといわれる
オスカー・シュトラウスのオペレッタ「ワルツの夢」を元にサムソン・ラファエルソンとエルンスト・ヴァイダが脚本を書き、レオポルド・ヤコブソン[de]とフェリックス・ドルマン[de]が台本を担当しました。このオペレッタはハンス・ミュラー・アイニゲンの小説「ヌクス、デア・プリンツゲマール」を原作としています。
この映画はアカデミー作品賞にノミネートされました。これはルビッチ監督、ミリアム・ホプキンス主演の3作品のうちの最初の作品です。他の2作品は「Trouble in Paradise」と「Design for Living」です。
ベルリン生まれ。洋服屋を営むアシュケナジムの両親に育てられる。
1922年、ハリウッド一の大スターの一人だったメアリー・ピックフォードに招聘され、渡米。1923年、ピックフォードの主演映画『ロジタ』を監督。その後ワーナー・ブラザースと契約し、1924年『結婚哲学』や1925年『当世女大学』などの作品を撮る。この頃から、人物の位置や視線などの映像表現によって人物の感情を描く、独自の「ルビッチ・タッチ」を確立していく。
1927年にはメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社に移り、翌年、パラマウント社に移籍。モーリス・シュヴァリエを主演に迎えたトーキー第1作の、1929年『ラヴ・パレード』や1931年『陽気な中尉さん』を監督。1932年の『極楽特急』や1933年の『生活の設計』など、工夫を凝らしたミュージカル映画や、巧みな物語運びと洗練された台詞の秀逸なコメディを手掛ける。1934年にはパラマウント社の意向で製作も手掛けるようになった[3]。翌1935年には製作主任に任じられている[4]。同年、マレーネ・ディートリヒにとって初めてジョセフ・フォン・スタンバーグの元を離れて主演した『真珠の頚飾』を製作。
1935年1月28日、ナチス・ドイツによってルビッチのドイツ市民権が剥奪された。ルビッチはドイツに残っていた姉たちとその家族、亡き兄の遺児をアメリカに呼び寄せた。1936年1月24日、アメリカの市民権を獲得。[5]
この映画は快適な環境で作られたわけではなかった。ニューヨークのアストリアスタジオに移されたことが、セットでの閉塞感の原因である。
シュヴァリエは、母親の死を悲しんだため、「笑顔とキュートなウィンク」の演技は「機械的な技術の披露」だったと述べている。
ルビッチはまた、同じ角度から撮影されることが決まっていたコルベールとホプキンスの間で審判を務めた。ルビッチは、スクリーン上の彼らのキャラクターにふさわしい論争を奨励した。
シュバリエの作り笑いがキモいのはそのせいだったのか・・・