3. 陽気な中尉さん
89分 モノクロ 1931年
原題「The Smiling Lieutenant」
監督:エルンスト・ルビッチ
主演:モーリス・シュヴァリエ、クローデット・コルベール
好色家の中尉はバイオリン弾きの美女と恋仲になるが、とあるハプニングから隣国の王女にも惚れられてしまう。
愉快な歌唱シーン満載で三人の恋愛騒動を描いたラブ・コメディ。

 

陽気な中尉さん - Wikipedia

The Smiling Lieutenant, From Left Photograph by Everett

陽気な中尉さん』(ようきなちゅういさん、原題:The Smiling Lieutenant)は、1931年に製作・公開されたアメリカ合衆国の映画である。オペレッタワルツの夢』などを原作とする[1][2]

 

監督 エルンスト・ルビッチ
脚本 エルネスト・ヴァイダ
サムソン・ラファエルソン
原作 ハンス・ミュラー、 Nux der Prinzgemahl (1905)
レオポールド・ジャコブソンフェリックス・ドルマンオスカー・ストラウスワルツの夢』、
出演者 モーリス・シュヴァリエ
クローデット・コルベール
ミリアム・ホプキンス
チャーリー・ラグルス
音楽 クリフォード・グレイ
オスカー・ストラウス
撮影 ジョージ・J・フォルシー
配給 パラマウント映画
公開 アメリカ合衆国の旗 1931年8月1日
日本の旗 1931年11月
上映時間 88分
製作国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語 英語

 

フル動画

 

 

ワルツの夢 - Wikipedia

 世紀末ウィーンとWW1と戦後の夢物語?

世紀末ウィーンの詩人としても辛うじて名を残しているフェリックス・デールマンドイツ語版)とレオポルト・ヤコプソンという人物の二人組によって台本が書かれ[3]1907年3月2日にカール劇場ドイツ語版)で初演された[2]

開幕の場面が風変わりであったり、完全なハッピーエンドにはならなかったりと、オペレッタとしてはかなり個性的な展開の台本となっている。ラブコメディではあるが、基本的に恋愛は劇の主題原理とはなっておらず、理想化されたウィーンへの執着という情動が劇全体を支配している[4]

 

オスカー・シュトラウス - Wikipedia

 綴り間違いをネタにしてたのは、そういうことか。

オスカー・シュトラウス(Oscar Straus, オスカル・シュトラウスの表記もあり、1870年3月6日 - 1954年1月11日)は、オペレッタ作曲家

本来の姓はもともと“Strauss”と綴ったが、著名なヨハン・シュトラウス一家(Strauss)との混同を避けるために、語末のsを一つ省いたといわれる

 

 

オスカー・シュトラウスのオペレッタ「ワルツの夢」を元にサムソン・ラファエルソンとエルンスト・ヴァイダが脚本を書き、レオポルド・ヤコブソン[de]とフェリックス・ドルマン[de]が台本を担当しました。このオペレッタはハンス・ミュラー・アイニゲンの小説「ヌクス、デア・プリンツゲマール」を原作としています。

この映画はアカデミー作品賞にノミネートされました。これはルビッチ監督、ミリアム・ホプキンス主演の3作品のうちの最初の作品です。他の2作品は「Trouble in Paradise」と「Design for Living」です。

 

 

監督 エルンスト・ルビッチ - Wikipedia

Ernst Lubitschベルリン生まれ。洋服屋を営むアシュケナジムの両親に育てられる。

1922年、ハリウッド一の大スターの一人だったメアリー・ピックフォードに招聘され、渡米。1923年、ピックフォードの主演映画『ロジタ』を監督。その後ワーナー・ブラザースと契約し、1924年『結婚哲学』や1925年『当世女大学』などの作品を撮る。この頃から、人物の位置や視線などの映像表現によって人物の感情を描く、独自の「ルビッチ・タッチ」を確立していく。

 

1927年にはメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社に移り、翌年、パラマウント社に移籍。モーリス・シュヴァリエを主演に迎えたトーキー第1作の、1929年『ラヴ・パレード』や1931年『陽気な中尉さん』を監督。1932年の『極楽特急』や1933年の『生活の設計』など、工夫を凝らしたミュージカル映画や、巧みな物語運びと洗練された台詞の秀逸なコメディを手掛ける。1934年にはパラマウント社の意向で製作も手掛けるようになった[3]。翌1935年には製作主任に任じられている[4]。同年、マレーネ・ディートリヒにとって初めてジョセフ・フォン・スタンバーグの元を離れて主演した『真珠の頚飾』を製作。

 

1935年1月28日、ナチス・ドイツによってルビッチのドイツ市民権が剥奪された。ルビッチはドイツに残っていた姉たちとその家族、亡き兄の遺児をアメリカに呼び寄せた。1936年1月24日、アメリカの市民権を獲得。[5]

 

 

The Smiling Lieutenant (Film) - TV Tropes

この映画は快適な環境で作られたわけではなかった。ニューヨークのアストリアスタジオに移されたことが、セットでの閉塞感の原因である。

シュヴァリエは、母親の死を悲しんだため、「笑顔とキュートなウィンク」の演技は「機械的な技術の披露」だったと述べている。

The Smiling Lieutenant (1931)... Toujours l'amour in the army! -Maurice ...

ルビッチはまた、同じ角度から撮影されることが決まっていたコルベールとホプキ​​ンスの間で審判を務めた。ルビッチは、スクリーン上の彼らのキャラクターにふさわしい論争を奨励した。

The smiling lieutenant 1931 - kasapquad

 

シュバリエの作り笑いがキモいのはそのせいだったのか・・・