『虹男』(にじおとこ) は、角田喜久雄の推理小説。 および、それを原作とする映画作品。
1947年に第一新聞に連載され、春陽文庫などで刊行された。『笛吹けば人が死ぬ』等でおなじみ明石良輔、岡田警部が登場、陰陽師の呪いをバックボーンに、虹に取り憑かれた一家、摩耶家の奇怪な連続殺人の謎を追う。
知的障害の少年や囚われの精神異常者といった異常なキャラクター達、「虹男の伝説」といったスリラー風味を前面に押し出しつつ、犯人捜し、アリバイトリック、虹を見せる殺人方法の理由など本格要素も含んだ探偵小説である。
監督 | 牛原虚彦 |
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脚本 | 高岩肇 |
製作 | 辻久一 黒岩健而 |
出演者 | 小林桂樹 暁テル子 若杉須美子 大日方傳 見明凡太朗 平井岐代子 植村謙二郎 宮崎準之助 浦邊粂子 |
音楽 | 伊福部昭 |
撮影 | 柿田勇 |
編集 | 辻井正則 |
配給 | 大映[1] |
公開 | 1949年7月18日[1] |
上映時間 | 81分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
スタッフ[編集]
- 監督:牛原虚彦
- 助監督:村山三男
- 企画:辻久一、黒岩健而
- 原作:角田喜久雄
- 脚本:高岩肇
- 撮影:柿田勇
- 撮影助手:板橋重夫
- 特殊撮影:横田達之、円谷英二(ノンクレジット[1])
- 特殊撮影助手:佐野佳博
- 録音:米津次男
- 録音助手:須田武雄
- 照明:柴田恒吉
- 照明助手:田熊源太郎
- 美術:今井高一
- 美術助手:尾上芳夫
- 装置:石崎喜一
- 小道具:武田三郎
- 背景:中村桂太郎
- 園芸:吉田年
- 工作:榎本良夫
- 電飾:千品正二
- 技髪:牧野正雄
- 結髪:田中つねえ
- 衣裳:大原糸江
- 音響効果:花岡勝次郎
- 移動:熊沢三郎
- スチール:宮崎忠男
- 記録:堀木日出
- 音楽:伊福部昭
- 編集:辻井正則
- 俳優事務:中山照子
- 制作主任:中島実
- メスカリン幻覚考証:戸川行男(早稲田大学心理学教授)
- 発色技術:富士写真フィルム技術研究所
キャスト[編集]
- 明石良輔 - 小林桂樹
- 鳥飼美々 - 暁テル子
- 小幡由利枝 - 若杉須美子
- 岡田警部 - 大日方傳(新東宝)
- 摩耶勝人 - 植村謙二郎
- 摩耶志満子 - 平井岐代子
- 野々村かね - 浦辺粂子
- 摩耶竜造 - 見明凡太朗
- 摩耶豊彦 - 宮崎準之助
- 町の医師 - 加原武門
- 清水刑事 - 花布辰男
- 平井医師 - 森山保
- 炭焼 - 宮島城之、佐々木正時
- 新聞記者 - 丸山修
- 西沢 - 渥美進
- 山本 - 北原義雄
- 書記 - 原田詃
- 刑事 - 守田学、鈴木信
- 女中 - 永田芳子
フル動画
角田喜久雄の上述の新聞連載作品を原作とし、大映東京撮影所の制作によって1949年(昭和24年) 7月18日に公開された[1]。大映のミステリー路線大映スリラーの1作[1]。パートカラー、スタンダードサイズ、81分、検閲認証番号:10504。同時上映は『犯罪は防げるか 兇悪犯罪の實態』。
幻覚物質メスカリンによる幻覚の表現として部分的にカラーフィルムを挿入した画期的な作品である。但しこれはドラマをカラー撮影したものではなく、赤、青、黄等の色のコントラストが映画の中途中途に数秒間挿入されるものだったが、カラー映画がまだ無かった日本映画では画面に色が現れるだけでも衝撃的な試みであった。虹男の幻影シーンなど、特撮パートには円谷英二が参加している。
なお、現存する本作のネガフィルムは1970年代の不燃化作業の際にデュープされたものであるが、当該作業時にはカラー映像部分のネガは発見されず、デュープネガではカラー部分は欠落している。現在鑑賞することが可能なのは当時の制作関係者や映画を観た人の証言を元にカラーパートを復元したバージョンである[1]。
これの泥鰌?
虹=七色=七つの顔
千恵蔵が臍を曲げて大映を飛び出したのを受けてこの企画?
ちなみにこの後「透明人間」大映の顔が無くなって困ってるところに特撮の神様降臨。
ヤクキメて絵を描くと言えば
メスカリン (3,4,5-トリメトキシフェネチラミン、3,4,5-trimethoxyphenethylamine) は、フェネチルアミン系の幻覚剤である。
名称はメスカレロ・アパッチが儀式の際に使用したことに由来する。なお、リュウゼツランを主原料とするメキシコの蒸留酒『メスカル(Mezcal)』とは無関係である。
1971年の向精神薬に関する条約によって国際的に規制され、日本では法律上の麻薬に指定されている。
メスカリンは、アメリカ合衆国で1970年に非合法化され、1971年の向精神薬に関する条約によって国際的に禁止されるようになった[15]。日本では、麻薬及び向精神薬取締法における麻薬の指定を受けている。
アメリカでは、アメリカ先住民宗教自由法(英語版)に基づき、ネイティブ・アメリカン・チャーチの儀式でのペヨーテの使用が認められている。
日本におけるメスカリン含有サボテンの販売規制などはない。
この頃から大映とつるんでた?
1940年(昭和15年)、ドイツのパリ侵攻をきっかけに日本へ帰国する。帰国後、滞欧作《傷ましき腕》などを二科展に出品して受賞、個展も開く。
1942年(昭和17年)、第二次世界大戦下の軍備増強の為、補充兵役召集され大日本帝国陸軍兵として中国戦線へ出征。岡本は最下級の陸軍二等兵扱いだったが、高年齢である30代という事もあり、厳しい兵役生活を送ったと著書で回想している。また、この頃上官の命令で師団長の肖像画を描いている。
1945年(昭和20年)、日本の降伏により太平洋戦争が終結。岡本は長安で半年ほど俘虜生活[5]を経たのち帰国、佐世保から東京に到着するが、自宅と作品は焼失していた。東京都世田谷区上野毛にアトリエを構え、ふたたび制作に励む。1947年(昭和22年)、岡本は新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。
1948年(昭和23年)、 花田清輝らとともに「夜の会」を結成。会の名は岡本の油彩画『夜』から取られた。前衛芸術について論じ合う会で、ほかに埴谷雄高、安部公房らが参加した。またこの頃、平野敏子と出会った。敏子は後に秘書・養女となり、岡本が死去するまで支え続けた。
1950年(昭和25年)には植村鷹千代と江川和彦、瀧口修造、阿部展也、古沢岩美、小松義雄、村井正誠、北脇昇、福沢一郎らと日本アヴァンギャルド美術家クラブ創立に参加 1951年(昭和26年)11月7日、東京国立博物館で縄文火焔土器を見て衝撃を受ける。翌年、美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話―縄文土器論」を発表。この反響によって、日本美術史は縄文時代から語られるようになったともいわれている[6]。また琉球諸島や東北地方の古い習俗を紹介した。
1954年(昭和29年)、東京都港区青山に自宅兼アトリエを建て[注 4]、生活と制作の拠点とする。同年、当時光文社社長だった神吉晴夫から、「中学2年生でも理解できる芸術の啓蒙書を書いてくれ」と依頼され、『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』を執筆・出版。芸術は小手先の問題ではなく、生きることそのものであると説くとともに、従来の芸術観を批判し、ベストセラーになった。