次郎物語 - Wikipedia

Yahoo!オークション - cb12238『次郎物語』プレス 島耕二 杉幸彦 杉裕...

次郎物語』(じろうものがたり)は、下村湖人による日本の長編教養小説である。全五部、未完

 

幼少期に里子に出された主人公・本田次郎の成長を、青年期にかけて描く。湖人自身の里子体験が反映されるなど、自伝的色彩が濃い。児童文学として読まれることも多い。

内容的には、家族や学校といった生活行動範囲の広がりに沿って主人公の人格的成長を描く第三部までと、五・一五事件二・二六事件に集約される軍国主義的な時代背景や、主人公の精神的恋愛を作品の重要な要素として、社会性の広がりに沿って展開する第四部以降に大別できると考えられる。

 

           これ、国家統制のプロパガンダ

 

1936年(昭和11年)大日本連合青年団の機関誌『青年』誌上で第一部にあたる『次郎物語』が連載され、1941年に出版される。のち小山書店発行の雑誌「新風土」誌上で1942年(昭和17年)年の第二部『続次郎物語』から1949年(昭和24年)3月の第四部まで連載され、第五部は大法輪閣発行の仏教総合誌「大法輪」誌上で1953年(昭和28年)3月から1954年(昭和29年)まで連載された。

         創価学会の仏教コスプレ、他にも多くがやってた

 

 

あらすじ

 

士族・本田家の次男として生まれた次郎は、幼少時から尋常小学校の校番の妻であるお浜の元に里子に出されていた。「孟母三遷の教え」をまねた、母親・お民の教育的配慮からである。そして次郎は母よりもお浜に懐き、実家を敬遠するようになる。

 

いやいやながら戻された次郎にとって、格式ばった実家は居心地の悪い場所であった。祖母・おことは次郎を露骨に差別待遇し、兄の恭一や弟ばかり可愛がる。次郎の側でも当てつけに喧嘩やいたずらを繰り返し、お民から説教を浴びせられるのだった。それでも、父親の俊亮、祖父の恭亮、さらにお民の実家である正木家の人々に見守られながら成長していく。

 

おことの差別待遇は改まらず、次郎は正木家に引き取られる。やがて恭亮が死に、お民は結核に侵され、俊亮も連帯保証人になった相手が破産したため次郎はお民の介護をする事となる。献身的な介護を続けるうち親子のわだかまりは解け、次郎とお民は肉親としての思慕を募らせる。

 

やがてお民は危篤状態に陥る。ついに迎えた臨終の際、兄弟三人揃って死に水をとり、臨終の宣告の後お浜に肩を抱かれ号泣して親族の涙を誘った(映画版では一生懸命に母の看病をする次郎に本来なら年齢制限がある夏祭りの踊り子をやらせてもらい、衣装を病床の母に作ってもらうが日に日に衰弱していき、夏祭り当日踊り子衣装を身に付けた次郎を見送った後、お浜に看取られながら亡くなってしまう。次郎は母の葬儀で泣く事はしなかった)。

 

 

1941年12月11日公開。製作は日活

キャスト

スタッフ

 

フル動画

 

 

次男物語

【1916】 島 耕二 (原作:下村湖人) 「 次郎物語 」 (1941/12 日活) ★★★☆ - HUREC AFTERHOURS 人事コンサルタントの読書・映画備忘録

直吉役 杉狂児 - Wikipediaの息子、次男と四男

Sugi Kyoji (杉狂児) - MyDramaList

稲垣浩は杉狂児について、「日本の映画史に残る喜劇役者だと、私は思う。いや、思うではなく是非とも日本映画史に残さねばならぬ喜劇役者である」とし、「伴淳森繁も個人の力はあるとしても、杉狂児の作ったレールを忘れてはならない。日活時代の小唄映画の数々は、今も人々の心のなかに残っている」と喜劇人としての杉を高く評価している[8]

 

 

原作 下村湖人 - Wikipedia

大学卒業後は、学資支援等を受けていた下村辰右衛門の長女菊千代と結婚し養子に入る。このころから下村 虎人(しもむら こじん)の筆名を使い始めた。佐賀中学校教師・唐津中学校教頭・鹿島中学校校長・唐津中学校校長を務め、さらに同郷の田澤義鋪の勧めで台中第一中学校校長・台北高等学校校長を歴任した後、1931年(昭和6年)に教職を辞す。1933年(昭和8年)から4年間にわたって田澤が主宰していた日本青年館別館「浴恩館」に設置された大日本青年団講習所の所長となっている。

 

1932年(昭和7年)より、本格的な作家活動に入った下村は、吉田絃二郎に筆名の「虎人」が「少し固すぎる」といわれたのを機に、これを尊敬するスコットランドの詩人ウォルター・スコットの代表作『湖上の美人』 に拠って「湖人」と替えた。そして1936年(昭和11年)から代表作『次郎物語』の連載を雑誌「青年」で開始する。

 

1938年(昭和13年)壮年団中央理事。翌年には「煙仲間運動」を提唱、戦後まもない1947年(昭和22年)にはNHKから「郷土建設と小豆島の煙仲間」が放送されている。1942年には小山書店発行の「新風土」誌上で『続次郎物語』連載開始。1948年(昭和23年)には復刊された「新風土」で『次郎物語』第四部の連載を開始。1953年(昭和28年)には全日本青年産業振興会顧問兼監事になっている。

 

1954年(昭和29年)には『次郎物語』第五部を上梓し、田澤義鋪の伝記『この人を見よ』を脱稿するが、このころから病床に伏すようになる。1955年4月20日午後11時2分、脳軟化症老衰のため東京都新宿区百人町の自宅書斎で死去した。70歳没。戒名は覚性院文園徳潤居士[1]。下村は『次郎物語』の第五部以降に、少なくともあと2編の構想を持っていたとみられることから、未完に終った作品と考えられている。