薔薇合戦(ばらがっせん)は、1950年10月28日に公開された[1][2]、成瀬巳喜男監督の日本映画。丹羽文雄による、同名の小説を原作とする。ドラマ映画。
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1929年に早稲田大学文学部国文学科を卒業後、生家の寺で僧職に就く。同人誌『新正統派』に発表した小説「朗かなある最初」が永井龍男によって評価され、その依頼で書いた「鮎」(『文藝春秋』1932年4月)が文壇で注目され、僧職を捨てて上京し、早稲田大学時代の同棲相手の家に住んだ。新進作家として注目され、『中央公論』や『文藝』の新人特集に『贅肉』『百日紅』が相次いで掲載された[3]。
日中戦争では日本文学報国会の前身となる漢口攻略戦の「ペン部隊」役員に選ばれるなど貢献を果たしたが、 1941年8月の内閣情報局による大量発禁処分では、丹羽の小説も「風俗壊乱の恐れ」のある一つとして槍玉にあがった[4]。 さらに太平洋戦争が始まると海軍の報道班員として重巡洋艦「鳥海」に乗り組み、第一次ソロモン海戦に従軍。その見聞を小説「海戦」にまとめた。
戦後は東京・銀座などを舞台とした風俗小説が人気を博し、一躍流行作家となるが、中村光夫から「風俗小説」として批判され、論争となった。50くらいまでは私小説的な作品が多かったが、50を過ぎてから、恋愛を中心とした長い小説を書くようになる。また『小説作法』はベストセラーとなり多くの文学青年に読まれた。
一方、執筆に行き詰りを感じていた時に亀井勝一郎から「(丹羽の小説は)親鸞から逃れようとしているが、結局は親鸞の足元で遊んでいる」と指摘されたことをきっかけに自らの宗教観について付き詰めて考え始め[5]、のちに『親鸞』『蓮如』などの宗教者を描いた小説を多く残した。文壇の大御所的存在で、後進との交流にも熱心であった。1950年代には同人誌『文学者』を主宰、瀬戸内寂聴や吉村昭、津村節子、富島健夫、中村八朗たちを育成した。また舟橋聖一とは自他共に認めるライバル関係だった。1956年から日本文藝家協会理事長、61年会長を兼任、69年理事長を辞任し、72年まで会長を務めた。
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