女優と詩人 - Wikipedia

『女優と詩人』(1935年3月21日・P.C.L.・成瀬巳喜男)|佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)の娯楽映画研究所

女優と詩人』(じょゆうとしじん)は、1935年(昭和10年)3月21日公開の成瀬巳喜男監督の映画。製作はP.C.L.(第12回作品)。前年に松竹からP.C.L.に移った成瀬の移籍第二作めで、成瀬の初トーキー映画乙女ごゝろ三人姉妹』と同月に公開された[1]。成功した女優の妻と貧しい童謡詩人の夫の暮らしをコミカルに描く。72分・35mm・白黒。

 

 

フル動画

 

 

監督の元嫁 千葉早智子 - Wikipedia

千葉 早智子

1933年、新映画社の『叫ぶアジア』で純情可憐な中国娘役で映画デビュー。同年設立したばかりのPCL(後の東宝)が自主製作に踏み切る上で、最大の障害が映画に欠かすことができない看板スターの不足で、PCLが目を付けたのが『叫ぶアジア』で録音を手掛けた千葉であった[2]。PCLにスカウトされた千葉は、同社の第1作で日本初のミュージカル映画ほろよひ人生』に主演[4]。端麗な容姿と美しい歌声で人気を集め[4]、以降、硬軟とりまぜ多くの作品に主演してPCL生え抜きの看板スター第1号[2]、No.1女優[5]となった。1934年松竹から移ってきた新鋭監督・成瀬巳喜男とのコンビで『妻よ薔薇のやうに』、『噂の娘』など、昭和10年のベストテンに選ばれた名作に主演、PCL躍進の主柱になって1937年成瀬と結婚した[2]。邦楽、洋楽ともにこなし、映画中でしばしば歌った[6]

この映画の2年後に結婚。てことは同棲時代・・・

 

幼児から邦楽洋楽どちらにも親しんだ音楽的素養も深く、殊に箏は宮城道雄について本格的に学び、尺八の吉田晴風と組んでアメリカに演奏旅行(1931年~1932年[3])をしたこともあるという多彩な経歴の持ち主[2]

 

うちにある宮城道夫盤は童謡率が高い。

 

 

 

主役が童謡作家

 

童謡 - Wikipedia

古くは子供の歌といえば、いわゆるわらべ歌であった。明治期に西洋より近代音楽が紹介されると、学校教育用に唱歌(文部省唱歌)と呼ばれる多くの歌が作られた。これらは徳育・情操教育を目的に、主に文語体で書かれ、多くは日本の風景・風俗・訓話などを歌ったものである。

 

1919年(大正8年)にニッポノホンから発売されたお伽歌劇茶目子の一日」のレコードには盤面に「童謡」の文字がある。

 

「童謡」(文学童謡)は児童雑誌『赤い鳥』の創刊によって誕生したといえるが、この雑誌に掲載された童謡には当初、曲(旋律)は付いていなかった。創刊年の11月号に西條八十の童謡詩として掲載された「かなりや」が、翌1919年(大正8年)5月号に成田為三作曲による楽譜を付けて掲載された。これが文学童謡の嚆矢である。これまでの難解な唱歌や俗悪な歌謡曲ではない、真に子供のための歌、子供の心を歌った歌、子供に押し付けるのではなく、子供に自然に口ずさんでもらえる歌を作ろう、という鈴木三重吉の考えは多くの同調者を集め、童謡普及運動あるいはこれを含んだ児童文学運動は一大潮流となった。

第6部②童謡運動 自由で進歩的、「赤い鳥」創刊【写真】 | 中国新聞デジタル

『赤い鳥』の後を追って、斎藤佐次郎の『金の船』など多くの児童文学雑誌が出版され、最盛期には数十種に及んだ。中でも『赤い鳥』の北原白秋山田耕筰、『金の船』(後『金の星』と改題)の野口雨情本居長世などが多くの曲を手がけ、童謡の黄金時代を築いた。北原白秋・野口雨情は、『赤い鳥』から『童話』へ移った西條八十と共に三大詩人と呼ばれた。

 

昭和に入ると児童文学雑誌は次第に不振となり、最も長く続いた『赤い鳥』『金の星』ともに1929年(昭和4年)には廃刊となった。さらに、次第に軍国色が強まるにつれ、童謡は軟弱であるとして排斥されるまでになった。一方で「隣組」(1940年(昭和15年)作詞:岡本一平、作曲:飯田信夫)や「戦争ごっこ」のような少国民歌に近い歌も作られたりした。現在「汽車ポッポ」(作詞:富原薫、作曲:草川信)として知られる歌も、元は「兵隊さんの汽車」という題名の出征兵士を歌ったものであった。