『春琴抄 お琴と佐助』(しゅんきんしょう おこととさすけ)は、1935年(昭和10年)6月15日公開の日本映画である。松竹キネマ製作・配給。監督は島津保次郎。モノクロ、スタンダード、110分。
谷崎潤一郎の中編小説『春琴抄』の最初の映画化作品である。当時の人気スターである田中絹代と高田浩吉の主演ということもあり、封切り2週続映の大ヒットを記録した[1]が、島津の演出は、所詮谷崎文学に肉薄し得ずと評され、批評家の北川冬彦と島津の間に激しい論戦が交わされた[2]。第12回キネマ旬報ベスト・テン第3位。
監督 | 島津保次郎 |
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脚本 | 島津保次郎 |
原作 | 谷崎潤一郎 |
出演者 | 田中絹代 高田浩吉 |
撮影 | 桑原昴 |
製作会社 | 松竹蒲田撮影所 |
配給 | 松竹キネマ |
公開 | 1935年6月15日 |
上映時間 | 110分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
- 監督・脚色:島津保次郎
- 原作:谷崎潤一郎
- 台詞監修:小野金次郎
- 考証・舞台装置:小村雪岱
- 筆曲作曲・演奏:今井慶松
- 撮影:桑原昴
- 美術監督:脇田世根一
- 助監督:豊田四郎、吉村公三郎、佐藤武
- 撮影助手:木下惠介
- 春琴:田中絹代
- 佐助:高田浩吉
- 利太郎:斎藤達雄
- 安左衛門:藤野秀夫
- しげ女:葛城文子
- 正木吉:坂本武
- 春松検校:上山草人
- 加平:水島亮太郎
- ならず者の親父:武田春郎
- 直吉:磯野秋雄
- 店員:小藤田正一
- 貞造:河村黎吉
- お楽:松井潤子
- お梅:雲井つる子
- 琴の姉:坪内美子
- 医者:野寺正一
- 春琴の弟子:大塚君代
- 春琴の弟子:小桜葉子
- 美子:村瀬幸子
- 若旦那:小林十九二
- 若旦那:大山健二
- 若旦那:山内光
- ならず者の娘:小栗寿々子
- 芸者:吉川満子
- 検校の弟子:久原良子
- 酒井啓之輔
- 幇間:日守新一
- 芸者:若葉信子
- 高松栄子
- 芸者:忍節子
- 芸者:高杉早苗
- もづ屋の女中:二葉かほる
- 店員:石山龍児
- 芸者:若水絹子
- 堺一三
- 青山万里子
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『春琴抄』(しゅんきんしょう)は、谷崎潤一郎による中編小説。盲目の三味線奏者・春琴に丁稚の佐助が献身的に仕えていく物語の中で、マゾヒズムを超越した本質的な耽美主義を描く。句読点や改行を大胆に省略した独自の文体が特徴。谷崎の代表作の一つで、映像化が多くなされている作品でもある。英訳タイトルは"A Portrait of Shunkin"。
1933年(昭和8年)6月、『中央公論』に発表された[1]。単行本は、「蘆刈」と「顏世」の2作品と共に収録し、同年12月に創元社より刊行された[2]。単行本初版の表紙には黒漆塗りと朱漆塗りの二種類が存在しており、後者は発行部数が極めて少ない珍本である[3]。
この原作、当時ブレイクしてた田中絹代を想定して書いたんじゃないか?
大スター様の相手役が駆け出し高田浩吉 - Wikipedia
1926年(大正15年)、大阪商業学校を中退して松竹京都撮影所に入社。長谷川一夫、坂東好太郎とともに「松竹下加茂三羽烏」と呼ばれる。まもなくトーキー映画時代に入ると、生来の関西弁を標準語に変えるため、撮影所の江戸小唄研究会というサークルに参加。小唄のレッスンで鍛え上げたその美声を映画監督の大曾根辰夫に買われて、1935年(昭和10年)に『大江戸出世小唄』でポリドール・レコードから歌手デビュー。大曾根監督の同名の映画の中でこの歌を歌ったことから「歌う映画スター」第1号として映画、主題歌ともに評判になった。なお、本作は当時封切られたばかりのルネ・クレールのフランス映画『巴里の屋根の下』で映画も主題歌もそれぞれ大ヒットしたことにヒントを得た大曾根監督が、日本初のミュージカル映画として製作したといわれる。
これ聴いたらキャスティングのピースが嵌った。
こりゃ松竹、ゴリ押しするわ。
全盲で筝のお師匠さんと来れば宮城道雄 - Wikipedia
宮城 道雄(みやぎ みちお、1894年〈明治27年〉4月7日 - 1956年〈昭和31年〉6月25日)は、日本の作曲家・箏曲家である。兵庫県神戸市生まれ。旧姓は菅(すが)[1]。十七絃の開発者としても知られる。大検校であったため、広く『宮城検校』と呼ばれた。
1910年(明治43年)に朝鮮・京城(現:ソウル)へ渡って頭角を現し、1913年(大正2年)、入り婿として喜多仲子と結婚したのち、妻の生家の宮城に改姓してからは芸名を廃止、本名の宮城姓を名乗った[1][2][3]。1914年(大正3年)に同地で尺八家の吉田晴風と知り合い、2人は生涯の親友となった[1][4]。道雄は朝鮮滞在中も神戸の旧師である中島や、熊本の地歌名手として知られる長谷幸輝のもとを訪ねてさらなる研鑽に励み、1916年(大正5年)に最高位である “大検校” の称号を受けた[1][2][註 1]。1917年(大正6年)4月、晴風の招きにより上京するが、ほどなくして妻が病死し、再び道雄は貧窮した[1][2]。
1918年(大正7年)に吉村貞子と再婚し、貞子の姪である牧瀬喜代子(後の宮城喜代子)、数江(後の宮城数江)姉妹がのちに道雄のもとへ入門した[2]。道雄は葛原しげる、高野辰之、山田源一郎、田辺尚雄らの洋楽作曲家や評論家、学者などに注目され、また彼らの支援や助言により、1919年(大正8年)、本郷春木町の中央会堂で念願の第1回作品発表会を開催し作曲家としての本格的なデビューを果たした[1][2]。翌1920年(大正9年)5月、葛原の紹介により、箏の経験を持つ内田百閒が道雄に入門する。箏では弟子である百閒は文学面では逆に道雄の師となった[5]。同年11月には東京の有楽座で本居長世とともに合同作品発表会を開き、この場で尺八演奏を担当した晴風が『新日本音楽大演奏会』と命名した。これは後に「新日本音楽」という邦楽と洋楽の結集による新しい日本音楽を創造することを目的とした活動になり、道雄、長世、晴風がその中心的な役割を果たし、開始されたばかりのラジオ放送や、レコード録音、初世中尾都山との演奏旅行などによって全国的に広められ、日本音楽の潮流に数多の影響を及ぼした[1][6]。
1925年(大正14年)、JOAKのラジオ試験放送初日に出演する。以後、道雄は毎年の正月放送を筆頭に海外との交歓放送や国際放送、初となる放送による箏曲の講習などを実施した。これらの放送文化に対する多くの功績が認められて1950年(昭和25年)に第1回NHK放送文化賞を受賞している[2]。1929年(昭和4年)に道雄が発表した箏と尺八の二重奏曲「春の海」は、来日したフランス人女流ヴァイオリニスト、ルネ・シュメー(イタリア語版)が尺八部分をヴァイオリンに編曲し道雄との合奏がなされ、世界的な評価を得ることになった。その合奏は1932年(昭和7年)にレコードに吹き込まれ日、米、仏で発売された[1][2][7]。「春の海」は翌年の歌会始の勅題「海辺巌」にちなんで制作されたもので、かつて道雄が瀬戸内海を船で巡ったときの印象をもとに、波の音や鳥の声、漁師の舟唄などを加えて作られた[7]。
1930年(昭和5年)、東京音楽学校講師に赴任。1937年(昭和12年)に同校の教授となり、翌年には東京盲学校の講師を務めた[3]。道雄の教育は箏曲に五線譜や絃名譜を能動的に取り入れるなどの斬新なものであった。また、初心者向けの箏や三味線用教則本を執筆した。加えて、門人を指導し後進の育成に努めた[1][2]。さらに、劇伴制作または筝曲指導というかたちで映画にもかかわっており、1935年には田中喜次の映画『かぐや姫』の音楽を手掛けた[8]ほか、1938年には百閒原作の東宝映画『頬白先生』で、百閒の娘役を演じることとなった高峰秀子に対して箏の手ほどきを行っている[5]。
かなり映画界とzbzbな関係だし。
大正時代には当時のモダンな風俗に影響を受けた諸作を発表、探偵小説の分野に新境地を見出したり、映画に深い関心を示したりもし、自身の表現において新しい試みに積極的な意欲を見せた[5]。
関東大震災の後、谷崎は関西に移住し、これ以降ふたたび旺盛な執筆を行い、次々と佳品を生みだした。長編『痴人の愛』では妖婦ナオミに翻弄される男の悲喜劇を描いて大きな反響を呼ぶ。続けて『卍』、『蓼喰ふ虫』、『春琴抄』、『武州公秘話』などを発表し、大正以来のモダニズムと中世的な日本の伝統美を両端として文学活動を続けていく[6][7]。こうした美意識の達者としての谷崎の思想は『文章読本』と『陰翳禮讚』の評論によって知られる。この間、佐藤春夫との「細君譲渡事件」や2度目の結婚・離婚を経て、1935年(昭和10年)に、元人妻の森田松子と3度目の結婚をして私生活も充実する[7]。