綴方教室 - Wikipedia

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綴方教室』(つづりかたきょうしつ)は、1930年代に、鈴木三重吉の影響下で教育運動として盛んになりつつあった生活綴方運動の中で、東京・下町の小学校教師、大木顕一郎の指導・編集・解説で出版された当時、本田小学校4年の豊田正子の26篇の「綴方」(雑誌『赤い鳥』掲載)を収め、1937年に出版された本の題名。

現在の岩波文庫版(山住正巳編、1995年、ISBN 4-00-332001-8)には、続編『続綴方教室』『粘土のお面』に収録された文章も10編合わせて収録されている。

出版されるや否や、当時の大衆の生活を素直な子供らしい視点で描いたことが話題になり、大ベストセラーとなる。戦後にも無着成恭らの「綴り方教育」に多大な影響を与えた。

1938年3月6日から3月20日まで新築地劇団が舞台化し、8月には東宝山本嘉次郎監督によって映画化されて評判になった。

山本嘉次郎監督は、ドキュメンタリー風な造りを意識し、ドラマ的要素を出来る限り排して、「ロケーション」を多用し、良質な佳作に仕上げている。昭和13年東京市葛飾区四つ木が舞台である。

映画化の際、撮影所を訪れた豊田が「高峰が女工を見下した発言をしていた」と書いたことに対し、高峰が内容証明でそれに反論する騒ぎもあった。

 

監督 山本嘉次郎
脚本 木村千依男
原作 豊田正子
製作 森田信義
出演者 高峰秀子
音楽 太田忠
撮影 三村明
編集 岩下広一
製作会社 東宝
配給 東宝
公開 日本の旗 1938年8月21日
上映時間 87分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語

 

名作なんで4本もアップされてる

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原作 豊田正子 - Wikipedia

 あちゃ~

東京本所[2](現・墨田区)の貧しい職工の家に生まれ、四つ木(現・葛飾区)で小学生時代を過ごした[3]

小学4・5年生の頃、鈴木三重吉の綴方指導の影響を受けた教師・大木顕一郎らの指導で書いた作文26篇が『綴方教室』に収められて刊行されるとたちまちベストセラーとなり、映画化され、本人朗読によるレコードも発売された(その頃、すでに小学校を卒業して女工になっていた)。

婦人公論』に創作を発表し、20歳を迎えた戦時中には中国視察に派遣され、『私の支那紀行 清郷を往く』(1943年)を発表した。

1945年東京大空襲で弟を亡くす。

戦後、日本共産党に入り、36歳上で既婚の作家江馬修と夫婦同然の暮らしを始める。

1964年、自身の母を描いた長編『おゆき』を発表。

中国共産党と対立する日本共産党と決別し、文化大革命中の中国に渡行。

1967年、『文革礼讃の書』を刊行。

江馬がより若い音大生の天児直美と恋に落ちたため、細々と宝飾店で働き、そこで戦後知っていた女優・田村秋子と再会。その死までを描いた『花の別れ』で1986年日本エッセイスト・クラブ賞受賞(その中で「共産党は貧乏人の味方だと思っていたがそうではなかった」と書いている)。

1989年、文壇人中国旅行を共にした高橋揆一郎によって豊田を描いたノンフィクション小説『えんぴつの花』が刊行される。

 

 

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