吾輩は猫である (映画) - Wikipedia

映画『吾輩は猫である』 (1936) | 「吾輩は猫である」

吾輩は猫である』(わがはいはねこである)は、夏目漱石長編小説吾輩は猫である』を原作とした映画化作品である。これまでに2度映画化され、1936年版と1975年版がある。

 

 
 
『吾輩ハ猫デアル 上編』ジャケット下絵 装丁橋口五葉(1905年)
吾輩は猫である』(わがはいはねこである)は、夏目漱石長編小説であり、処女小説である。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』にて発表されたのだが、好評を博したため、翌1906年(明治39年)8月まで継続した。上、1906年10月刊、中、1906年11月刊、下、1907年5月刊。
 
表面的にすぎない日本の近代化に対する、漱石の痛烈な文明批評・社会批判が表れている風刺小説。なお実際、本作品執筆前に、夏目家に猫が迷い込み、飼われることになった。その猫も、ずっと名前がなかったという。
 
映画では猫人称の語りは無い。
吾輩は猫である(戦前版) : ねこむすめのブログ
 
 
欧州戦やウッドローウィルソン大統領の名前が出てたので、映画製作当時の国際情勢が錬り込まれてる。
 
山本 嘉次郎

関東大震災後には関西で結成された「早川プロダクション」で『熱火の十字球』(1924年)を監督した。これが監督デビュー作である[4]。1934年、P.C.L.に移籍し[1]エノケン映画を数多く監督。中でも『エノケンのどんぐり頓兵衛』(1936年)『エノケンのちゃっきり金太』(1937年)は、エノケンの持ち味の音楽ギャグを生かした、数あるエノケン映画の中でも屈指の傑作と言われている。

1938年高峰秀子主演で『綴方教室』を監督、1941年には黒澤明を助監督に『』を制作した。この2作品は従来扱われていなかった世界を扱った佳作として高い評価を受けた。

第二次世界大戦中の1942年円谷英二特技監督を務めた『ハワイ・マレー沖海戦』を東宝映画で制作する。この映画は海軍省の至上命令で制作されたが、日本の航空母艦の資料提供を一切受けられなかった。このため米国の航空母艦資料(写真等)を基に甲板セットを組んだところ、海軍同席の完成試写で宮家の激怒(米国空母と類似している為)を買い、あわや封切り差し止めとなりかけた。無事公開できたことについて山本は戦後、「誰がどうやってあの場を収め、公開にこぎつけられたか未だにわからない」と語っている。

1944年には陸軍省後援の『加藤隼戦闘隊』を東宝で制作・公開。藤田進を主演(加藤建夫戦隊長役)に、特技監督は前作と同じく円谷英二を迎えた。一式戦闘機「隼」をはじめとする実物機や陸軍落下傘部隊を多数動員するなど陸軍全面協力のもと撮影が行われ、本作は同年の興行収入のトップを記録した。