『路傍の石』(ろぼうのいし)は、山本有三の代表的な小説である。1937年に『朝日新聞』にて連載、のちそれを改稿したものが翌1938年に『主婦之友』にて『新篇路傍の石』として連載された。しかし、当時の時代背景の影響(検閲など)もあり、1940年に山本は断筆を決意、最終的には未完に終わった。
東京帝國大学でドイツ語を専攻した山本は、当時ドイツで流行した教養小説の影響を受けてこの作品を書いたとされる。大正期の社会主義と個人主義の対立を背景に据えていることも、重要なポイントである。
吾一の生き方は、山本自身の生い立ちと重なる部分も多いが、本人はそれを否定しており、実際、細部において山本の生き方とは異なる。
近年では、いわゆる機能不全家族(アダルトチルドレン)との関連で、一部[誰?]で再び評価されつつある。
戦前、戦後を含め4回に亘り映画化された。
- 路傍の石 - 『朝日新聞』1937年1月1日 - 6月18日(第一部・完)
- 新篇路傍の石 - 『主婦之友』1938年11月 - 1940年7月(中絶)
- 同誌1940年8月号に、中絶を判断した事情を山本自ら記した「ペンを折る」を掲載。
新聞連載版は新たな下宿先の娘およねとの恋、その兄との出会い、父との再会などが続き、最終的に吾一が自身で出版事業を始め、それを軌道に乗せるところまで描いて「第一部」が終了した。連載当時の現代(昭和10年代)を舞台にした「第二部」の執筆を告知したものの、連載再開に至らなかった。
『新篇』は新聞連載版を改稿し、物語を最初から仕切り直したものであるが、前述の事情もあり「お月さまは、なぜ落ちないのか」の章で断筆、第一部の終了にも至らず未完に終わった。
現在刊行されている『路傍の石』は、作者曰く最もきりが良いとの理由で「次野先生」の章までで終わっているものが多い。後述の新潮文庫は『新篇』の方を中絶部分までと「ペンを折る」、さらに新聞連載版の続きに当たる章を「付録」として第一部最後まで収録しているが、登場人物の名前や地名など、『新篇』で変えられた固有名詞はそのままになっている。
1938年公開。日活製作。この作品は文部省推薦映画の第1号に指定されており、キネマ旬報ベストテンでは1938年度の第2位に入っている。
監督 | 田坂具隆 |
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脚本 | 荒牧芳郎 |
原作 | 山本有三『路傍の石』 |
出演者 | 片山明彦 山本礼三郎 |
音楽 | 中川栄三 |
撮影 | 伊佐山三郎 碧川道夫 永塚一栄 |
編集 | 相良久 |
製作会社 | 日活(多摩川撮影所) |
配給 | 日活 |
公開 | 1938年9月21日 |
上映時間 | 136分(オリジナル) 119分(現存) |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
- 監督:田坂具隆
- 脚色:荒牧芳郎
- 音楽:中川栄三
- 愛川吾一:片山明彦
- 愛川庄吾:山本礼三郎
- 愛川おれん:滝花久子
- 稲葉屋黒子泰吉:井染四郎
- おせい:吉田一子
- 久美田住江:沢村貞子
- 久美田加津子:松平富美子
- 伊勢屋主人喜兵衛:吉井莞象
- 番頭忠助:見明凡太郎
- お糸:三井智恵子
- 染物屋京屋:上代勇吉
- 仕立屋河銀:井上敏正
- 梅原一郎:潮万太郎
- 福谷麻太郎:三島鉄男
- おぬい:星美千子
- 栗村鏡造:須田大三
- 山田咲二:飛田喜佐雄
- 次野立夫:小杉勇
- 熊方信義:江川宇礼雄
フル動画
小新聞社の記者として勤務のち、病弱で兵役免除となったのを機に厳格な父の反対を押し切って1924年(大正13年)、日活大将軍撮影所へ入社。助監督となり、徳永フランク、三村源治郎、村田実、溝口健二、鈴木謙作らにつき、3年目には早くも監督に昇進した。『かぼちゃ騒動記』で監督デビュー後、『情熱の浮沈』、『阿里山の侠児』、『かんかん虫は唄う』、『この母を見よ』、『春と娘』など、様々なジャンルの作品を発表。
入江たか子主演の『心の日月』の大ヒットで一線に立ち、自分の企画で映画を作れるようになった[5]。1932年(昭和7年)、日活太秦撮影所の争議で内田吐夢、伊藤大輔、村田実らと「七人組」を結成し日活から独立、新映画社を興すが解散。新興キネマを経て『月よりの使者』と『明治一代女』のヒットで日活多摩川撮影所に復帰、ここで田坂具隆の名を日本映画史上永遠のものとする時期を迎える[6]。
1938年(昭和13年)、山本有三作『真実一路』と『路傍の石』の2作品は、ヒューマニズムに貫かれた田坂の代表作となった。また戦争映画の『五人の斥候兵』と『土と兵隊』では、戦う兵隊の人間らしさの表現に、暖かい眼を注ぐことを忘れなかった[1]。どちらかといえば平凡な作風と思われがちだった人が、その持てる真価を静かに世に問うた[6]。
同年、『五人の斥候兵』が第6回ヴェネツィア国際映画祭でイタリア民衆文化大臣賞を受賞。本作は外国で賞を獲得した最初の日本映画といわれ[7]、日本映画界初の世界三大映画祭受賞作である。この一年を境に僚友・内田吐夢とともに日活を代表する巨匠の座についた[6]。
1939年(昭和14年)、『土と兵隊』が第7回ヴェネツィア国際映画祭で日本映画総合賞を受賞。
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