壮士劇場 : 作品情報 - 映画.com (eiga.com)

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「おかぐら兄弟」に次ぐ稲垣浩の本年度第一回監督作品。脚本は「婦人警察官」「龍虎伝」の八尋不二、撮影は「手袋を脱がす男」「槍をどり五十三次」の宮川一夫がそれぞれ担当した。「国定忠治(1946)」に次ぐ阪妻、「今宵妻となりぬ」の入江たか子、松竹「深夜の市長」の月形龍之介らが出演する他、新人日高澄子がデヴューする。

 

1947年製作/89分/日本
配給:大映
劇場公開日:1947年5月6日

 

監督
脚本
八尋不二
企画
松山英夫
撮影
宮川一夫
美術
角井平吉
録音
中村敏夫
照明
加藤庄之丞

 

フル動画

カラー化フル動画

 

 

壮士 - Wikipediaとは?

日本史上の概念では、1880年代自由民権運動において活躍した職業的な政治活動家のこと。元々、士族自作農などの子弟が、若さと行動力を武器として活動を展開したものである[3]。壮士には血気盛んな若者の意味もある。

しかしここ[どこ?]では特に自由民権運動への弾圧や自由党立憲改進党の確執が深刻化した1883年明治16年)頃から活発化した活動家を指し、大同団結運動三大事件建白運動帝国議会開設と重大事件が続いた1890年(明治23年)が最盛期であった。演説会における参加者の安全確保や警察や反対党による妨害活動の阻止、さらにサクラ的な役割などに活動し、星亨大井憲太郎尾崎行雄らも壮士を政治活動に活用した。

壮士の中には蓬髪高履姿で仕込杖を携え、官憲や対立党派に対して暴力行為に及ぶ者もおり、世論から批判を受けただけでなく、保安条例などの政府による弾圧の正当化にも利用された。一方で、川上音二郎壮士芝居のような独創的な活動を起こす者もいた。

明治憲法体制の安定化とともに壮士は姿を消していったが、院外団大陸浪人に転じる者もいた。

 

つまり反体制劇団?

 

バンツマ演じる

角藤定憲 - Wikipediaとは?

角藤 定憲

角藤 定憲(すどう さだのり、慶応3年7月(1867年8月) - 明治40年(1907年1月20日)は、壮士芝居の座長。彼の旗揚げ興行が新派の始まりとされている[1]

 

岡山の七軒町(現・岡山市北区南中央町)に生まれた[2]。音平と言った。明治維新士族の生家が没落し、郵便配達などを勤めたのち、1887年(明治20年)(20歳)、京都で巡査となったが、"過激な自由民権運動は取り締まれ"との命令に逆らって退職し、1888年、中江兆民の自由党機関紙『東雲新聞』に入り、自伝小説『剛胆の書生』を連載した。

保安条例により大阪へ逐われていた兆民は、中村宗十郎の歌舞伎『雪中梅』を観て、自由民権運動の推進に演劇が有効と気付き、『剛胆の書生』の上演を角藤に勧めた。尻込みした上で、角藤は宗十郎の弟子の中村九升に演技の手解きを受け、同年12月、『日本改良演劇一座』と称し、自作の『耐忍之書生貞操佳人』と、幸徳秋水作の『勤王美談上野曙』とを、新町座で上演した。しろうと芝居だったが、もの珍しさが評判を呼び、板垣退助にも激励された。後続の劇団が各地に生まれた。

角藤は俳優に転じ、笠井栄次郎、池田吉之助、神原清三郎、横田金馬ら、十数人の座員と、翌年から京都・中国地方・九州を巡業した。『大日本壮士演劇会』、『大日本帝国元祖壮士演劇』などとも称した。『壮士演劇』の『壮士』とは、自由民権運動の活動家の呼び名である。

1894年(明治27年)、東京で初公演したが、後続の川上音二郎伊井蓉峰福井茂兵衛山口定雄らの数劇団がすでに根を下ろしていて、角藤一座は注目されず、もっぱら地方を回るようになった。

 

幸徳秋水 - Wikipedia

日本ジャーナリスト思想家共産主義者社会主義者無政府主義者(アナキスト)

 

秋水は1898年(明治31年)2月に中央新聞を去り、1892年(明治25年)に黒岩涙香が創刊した「萬朝報」の記者となる。萬朝報は日本におけるゴシップ報道の先駆けとして知られ、ひたすら権力者のスキャンダルを追及し、蓄妾実例といった人間のプライバシーを暴露する醜聞記事で売り出した新聞である。1899年(明治32年)末には東京で発行される新聞の中で発行部数第1位に達し、その数は最大で30万部にもなった。また、一時期は淡紅色の紙を用いたことから「赤新聞」とも呼ばれた。秋水は萬朝報の記者として勤務しながら国民英学会で学び、1900年(明治33年)8月30日に旧・自由党系の政党である憲政党が以前からの政敵である藩閥の伊藤博文と共に「立憲政友会」を結成したことを嘆き、萬朝報の同日付けの記事に「嗚呼、自由党死すや」との一文で有名な「自由党を祭る文」と題した批判論文を掲載した。また、同年6月から発生した義和団の乱(北清事変)制圧の際に日本軍が清国馬蹄銀を横領した容疑を萬朝報で追及し、陸軍中将真鍋斌を休職に追い込んだ(馬蹄銀事件)。このことで真鍋や山縣有朋から恨みを買い、これがのちの大逆事件へ繋がったとする説がある[3]。一方、同年5月には皇太子が結婚したが、これを祝福する社説を無署名であるものの萬朝報に記載した[4]

秋水はその後、1901年(明治34年)5月20日に結成された社会民主党に創立者として参画した。しかし活動が即日禁止され、6月3日に組織変更として社会平民党への結社を届けるも、再び即日禁止される。同年には「廿世紀之怪物帝国主義」を刊行して帝国主義を批判する。これは当時では国際的に見ても先進的なもので、同年12月10日に田中正造足尾銅山鉱毒事件について明治天皇に直訴した際の直訴状はまず秋水が書き、田中が手を加えたものである。ただしこの直訴状については、田中が直訴状の執筆を依頼するものの依頼された者たちが後難を恐れて尻込みする中、秋水だけは断らずに書いたとも言われている[5]。同年に「秋水」の号を授かった兆民が亡くなり、1902年(明治35年)5月28日に兆民を追悼する「兆民先生」を発表した。

 

日露戦争1904年(明治37年)に勃発するが、その前年には戦争に反対する論調の新聞も存在する中で世論の空気はロシア帝国との開戦へと押されていった。秋水が記者を務める萬朝報も社論を非戦論から開戦論へ転換させたため、10月12日堺利彦内村鑑三石川三四郎と共に発行元の萬朝報社を退職する[6]。同年11月15日には堺と共に非戦論を訴え続けるために「平民社」を開業し、週刊「平民新聞」を1905年(明治38年)1月29日まで発行した。この頃、萬朝報で同僚だった斎藤緑雨が病に倒れて貧窮したため、平民新聞に緑雨のために「もゞはがき」という欄を設け、原稿料を得ることが出来るようにした[7]。緑雨はその送金が待ちきれず自ら平民社へ受け取りに来ることも多々あり、秋水はその度に小遣い銭を加えて渡していたという[7]

1904年(明治37年)には与露国社会党書を発表し、堺と共に「共産党宣言」を翻訳して発表するが即日発禁され、今村恭太郎裁判官により罰金刑となる[8]。そして1905年(明治38年)に新聞紙条例でついに投獄される。獄中でピョートル・クロポトキンを知り、秋水はこの頃から無政府主義(アナキスト)へ傾倒していく。出獄後の同年11月14日に渡米し、サンフランシスコでアメリカへ亡命していたロシアアナキストのフリッチ夫人やアルバート・ジョンソンらと交流し、アナルコ・サンディカリスムの影響を受けた。そのまま滞在していた最中の1906年(明治39年)4月18日にはサンフランシスコ地震に遭遇し、その復興としての市民による自助努力に無政府共産制の状態を見る[9]。地震の影響で同年6月23日には帰国して歓迎会が開催されたが、その席で秋水はゼネラル・ストライキによる直接行動論を提唱する。

その後、1月に成立した第1次西園寺内閣の融和政策のもとで結党が認められた日本社会党において、「国法ノ範囲内ニ於イテ社会主義ヲ主張ス」という合法主義を掲げていたため、秋水の掲げた実力行使[10]に対して党内は大きく揺れることになり、労働者による普通選挙運動を主張する片山潜田添鉄二らの「議会政策論」と対立し袂を分けることになった。秋水はのちに社会革命党岩佐作太郎と共に結成し、1907年(明治40年)2月5日付けの平民新聞に「余が思想の変化-普通選挙に就て」を発表して直接行動を主張した。その結果、1909年(明治42年)に「自由思想」を発刊するも即日発売禁止処分を受け、さらには赤旗事件で入獄していた荒畑寒村の妻・管野スガ(須賀子)と不倫関係を結び、同年3月に妻・千代子と離婚した[11]。スガ自身も事件に関与したとして過酷な取り調べを受けたが、当時は肺病を患っており乱闘に加わらなかったため、釈放されるも勤務先の「毎日電報」は解雇処分となった。秋水がスガと出会ったきっかけは、「自由思想」の創刊をスガと共に行ったことでスガがアナキズムに共鳴し、秋水からの経済的援助を受けたこと、さらに秋水が開業した平民社でスガが肺病の治療も兼ねて生活していたものが次第に同棲へ発展した。しかしこの関係はすぐに発覚し、秋水に対立する各新聞・雑誌がここぞとばかりに「重婚」「スキャンダル」と大きく報じたことで2人の関係は同志の間でも評判が悪化、秋水の周りから人が遠ざかっていく原因となったとも言われる。順調だった秋水の人生にも蹉跌の色が見え始めていた。

 

 

そうだったのか。

ロシア革命以前から動きがあって、日本を戦争に導くことで敗戦革命を狙った先駆者だったと。