『源氏物語』(げんじものがたり)は、1951年(昭和26年)11月2日公開の日本映画である。大映製作・配給。監督は吉村公三郎、脚本は新藤兼人。モノクロ、スタンダード、123分、映倫番号:483。
大映の創立10周年記念映画として、豪華出演者・スタッフで製作した大作映画。紫式部の『源氏物語』の初の映像化作品であり、本作では、桐壺の死と光源氏の幼少期をプロローグとし、26歳頃の源氏を中心とした1年半の物語を描いている[2]。配収は1億4105万円で、1951年度の邦画配収ランキング第1位となった。第25回キネマ旬報ベスト・テン第7位、第5回カンヌ国際映画祭撮影賞受賞。
監督 | 吉村公三郎 |
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脚本 | 新藤兼人 |
製作 | 永田雅一 |
出演者 | 長谷川一夫 京マチ子 乙羽信子 木暮実千代 大河内傳次郎 |
音楽 | 伊福部昭 |
撮影 | 杉山公平 |
編集 | 西田重雄 |
製作会社 | 大映京都撮影所 |
配給 | 大映 |
公開 | ![]() |
上映時間 | 123分 |
製作国 | ![]() |
言語 | 日本語 |
配給収入 | 1億4105万円[1] |
- 監督:吉村公三郎(近代映画協會)
- 製作:永田雅一
- 企画:松山英夫
- 脚本:新藤兼人(近代映画協會)
- 監修:谷崎潤一郎
- 校閲:池田亀鑑
- 後援:紫式部学會
- 撮影:杉山公平
- 録音:大角正夫
- 照明:加藤庄之丞
- 美術監督:水谷浩
- 音楽監督:伊福部昭
- 風俗考証:江馬務
- 建築考証:藤原義一
- 庭園考証:重森三玲
- 舞楽考証:平安舞楽會
- 衣裳調整:髙島屋
- 特殊撮影:松村禎三、本多省三
- 編集:西田重雄
- 製作主任:橋本正嗣
- 按舞:藤間良輔
- 箏曲:東登美子
- 琵琶:安田旭邦
- 装置:上里義三、林米松
- 装飾:吉田儀一、角井博
- 背景:澤井富太郎、太田多三郎
- 特殊効果:久光五郎
- スチール:齊藤勘一
- 衣裳:前田梅吉、後藤定子
- 美粧:野口年一、福山善也
- 結髪:花井りつ
- 拆装:上野芳生
- 擬闘:宮内昌平
- 園芸:中岡芳三郎
- 記録:秋山みよ子
- 助監督:三隅研次
- 撮影助手:本田平三
- 録音助手:倉島暢
- 照明助手:岩木保夫
- 美術助手:内藤昭
- 移動効果:宇野薫
- 演技事務:久松健二
- 進行:小澤宏
- 光源氏:長谷川一夫
- 播磨入道:大河内傳次郎
- 藤壺:木暮実千代(松竹)
- 葵の上:水戸光子
- 淡路の上:京マチ子
- 紫の上:乙羽信子
- 良成:堀雄二
- 頭中将:本間謙太郎
- 左大臣:菅井一郎(第一協團)
- 右大臣:進藤英太郎
- 御門:小沢栄(俳優座)
- 朧月夜の君:長谷川裕見子
- 桐壷:相馬千恵子
- 桐壷の母:英百合子
- 尼君:瀧花久子
- 弘徴殿女御:東山千栄子(俳優座)
- 惟光:加東大介
- 左馬頭:近衛敏明
- 藤式部丞:小柴幹治
- 僧侶:殿山泰司(近代映画協會)
- 下人:天野一郎
- 僧都:上山草人
- 源氏の従者:石原須磨男
- 朱雀院の御門:筧田浩一
- 源氏の幼少時代:本松一成
- 刺客:清水明、佐々木小二郎
- 下人:由利道夫
- 弘徴殿の命婦:大美輝子、正木隆子
- 典侍:大伴千春
- 藤壺の命婦:橘公子、小松みどり、三星富美子、戸村昌子
- 朧月夜の君の女房:相馬幸子
- 淡路の上の女房:小林叶江、中目順子
- 葵の上の女房:仲上小夜子、高森和子
- 花売りの女:堀さわ子
- 市女笠の女:高原朝子、前田和子
- 紫の上の女房:松岡信江
- 命婦:橘恵美子、瀧のぼる、小柳圭子、大井由貴子、南春恵、富田暁美、富士原比那子、種井信子、児島昌子
- 桐壷の女房:小櫻瑠美
カラー化フル動画
本作は、当時の源氏物語ブームにあやかって製作され[4]、当時の日本映画においては空前の規模で製作を敢行した[5]。新藤兼人は、原作に最も忠実といわれる与謝野晶子の現代語訳をもとに、長大な原作を約1年半の物語に脚色し、さらに明石の上と女三宮を合体させた「淡路の上」という人物を新たに創出している[4][6]。脚色には、谷崎潤一郎が監修、池田亀鑑が校閲、紫式部学会が後援にあたった。
主演級の俳優の衣裳60組は、髙島屋の全面協力によって調達し、花の宴のシーンでは30人の女官の衣裳代だけで総予算をオーバーしたという[5]。
南方戦線より復員後の1947年、没落する華族の最後の舞踏会を通じて新しい社会の到来を印象付ける作品となった『安城家の舞踏会』を撮り[5]、キネマ旬報ベストワンに輝く。以後、この作品の脚本を書いた新藤兼人とのコンビで多くの名作を制作することとなる。また、1950年には、その新藤兼人と映画製作会社「近代映画協会」を設立し、作品は主に大映で配給された。1951年に『偽れる盛装』で毎日映画コンクール監督賞を受賞している。なお、この年には松竹大船撮影所に見学に来ていた岸惠子をスカウトした[6]。
以後、1952年には監督した『源氏物語』がカンヌ国際映画祭に出品され、杉山公平が撮影賞を受賞している。精力的に作品を発表し、男女の心理描写に優れた手腕を発揮した。1956年、経営が行き詰った近代映画協会を離れ(新藤兼人の要望で名義だけは残した。昭和40年代、再び近代映協製作映画の監督を務めている)、大映に入社し、山本富士子や京マチ子を主演にした『夜の河』と『夜の蝶』の女性映画モノを脚本家田中澄江とコンビを組んで、大映時代の代表作とした。太平洋テレビジョンの取締役兼映画部長も務めた[7]。
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