わが恋は燃えぬ(わがこいはもえぬ)は、1949年に公開された日本映画。配給は松竹。84分、モノクロ、スタンダードサイズ、検閲認証番号:10159。
明治・大正時代、婦人解放運動に苦闘した先駆者・影山英子(福田英子)の半生をもとに描く。
監督 | 溝口健二 |
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原案 | 野田高梧 |
製作 | 糸屋寿雄 |
出演者 | 田中絹代 水戸光子 |
撮影 | 杉山公平 |
製作会社 | 松竹 |
公開 |
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上映時間 | 84分[1][2] |
言語 | 日本語 |
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18歳の時、岸田俊子(中島湘烟)の演説に触発されて自由党に接近し、朝鮮改革運動に参画して爆発物運搬などに協力して投獄された(大阪事件)。大阪事件の前年1884年(明治17年)、蒸紅学舎の閉鎖事件によって、専制政府の弾圧を実感した英子は、一身をささげて戦おうと決意して、母にも真相を告げず故郷を出奔して大阪へ走り、親戚の藤井家に身を寄せた。その頃、自由党解党の大会が北野大融寺で開かれることになっており、栄子は有名な自由党の人士が下阪してくることをかねて知っていた。そこで、東都遊学の資金を援助してもらうために、当時自由党のシンパサイザーとして有名であった大和の豪農土倉庄三郎を銀水楼に訪ねた。しかし土倉には会えず失望しているうちに、小林樟雄が下阪してきた。小林は英子から本心をうち明けられ、志のかたく動かないのを察して、自由党総理板垣退助に紹介した。板垣は栄子の志を深く賞していっさいの面倒をみることを約束し、おくれて下阪してきた土倉にすすめて英子の学費を出資させるとともに、東京における保護者として坂崎紫瀾にいっさいを依頼することになった。
大井憲太郎と内縁状態になって一子をもうけるが、別れたのち、万朝報記者福田友作と結婚して3人の子をもうけるも、貧窮の末に死別した。その後、福田の元書生石川三四郎と交際する。その間に大井に女子実業学校、角筈女子工芸学校を設立した。
内村鑑三の角筈の自宅で行われていた角筈聖書研究会に出席し聖書を学んだ。しかし、1907年(明治40年)に、社会主義に批判的であった内村から突然聖書研究会への出席を拒否された。直後、福田は1907年(明治40年)3月15日の『世界婦人』(『新紀元』の後継誌として石川三四郎と福田英子で始めた雑誌)6号に「内村先生に上(たてまつ)る書」を書き、社会主義とキリスト教の神の摂理は一致しているのではないか、心霊上の及第にまさって物界の救助をはかることが神の真意にかなうものではないかなどと述べて、内村に対し教示を求めた。[3]
自由民権運動が勢いを失うと、幸徳秋水、堺利彦らの平民社に参加し、社会主義運動に身を投じた。平民社が解散した後も、石川や安部磯雄らと月刊新聞『世界婦人』を発刊して主筆となるなどの言論活動を展開した。
英子の夫の福田友作(1865 - 1900)は、栃木県下都賀郡穂積村間中(現・小山市間中)の近在でも屈指の蚕種問屋の長男に生まれた[9][10]。友作の実家は代々庄屋を勤める大地主で、享保年間に福田長左衛門が北陸より浄土真宗の移民を勧誘して一村を開拓した(現在の三和町[要曖昧さ回避]尾崎長左衛門新田)[9]。福田は早くから自由民権運動に傾倒し、1883年(明治16年)5月には地元の演説会に代表者として登壇した[9]。18歳で渡米し、粕谷義三らとともにミシガン大学で学び法学士を取得した[11]。自由党が解散し、立憲改進党が分裂して自由民権運動が敗北した1884年以降に渡米中の壮士らが結成した「在米愛国同盟会」の一員となった[12]。1890年に帰国後、外国語学校である同人社で1891年まで教鞭をとった[13]。この頃、友作夫婦の家に一時石川三四郎が寄宿していた[13]。1892年に、友作が英子と結婚するために前妻を離縁したことから実家の不興を買ったため、結婚生活は困窮を極め、英子に手を上げるなど夫婦喧嘩が絶えなかった。しかし、英子は自伝で幸せな結婚生活だったと述懐している。友作は、大井憲太郎率いる東洋自由党に参加して、普通選挙期成同盟会、日本労働協会の活動に従事したほか、高野房太郎、城常太郎、沢田半之助らがサンフランシスコで結成した「職工義友会」(労働組合期成会の前身)の東京支部も支援した[12]。1898年(明治31年)頃より脳を病み(医師の診断では脳梅毒)、翌年三男が生まれた日に発狂して、半年ほど座敷牢で暮らしたのち1900年(明治33年)4月23日に36歳で死去した[9][13][10]。夫の没後、英子はかねてより夫婦の親しい友人であった石川三四郎と同居し活動を共にした。
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