瀧の白糸 - Wikipedia

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溝口健二監督作品。サイレント映画。88分。5つプリントが現存するが、ラストシーンが欠落したものや、ラストシーンを含むものの欠落や傷が多いものなど、不完全なプリントしか残されていない[3]。このため、フィルムセンターにより欠落部分を補い、ラストシーンを修復したデジタルリマスター版が作成されている[4][5]

 

監督 溝口健二
脚本 東坊城恭長
原作 泉鏡花
出演者 入江たか子
岡田時彦
菅井一郎
村田宏寿
浦辺粂子
撮影 三木茂
製作会社 入江プロ
配給 新興キネマ
公開 1933年
上映時間 88分

活弁付フル動画

2007年に望月京が付随音楽を作曲。IRCAMフェスティヴァル・アゴラの枠内でルーヴル美術館オーディトリウムで初演された。

このような昔の無声映画に現代の作曲家が新たに音楽を付ける試みは、ここ十数年間[いつ?]毎年ルーヴル美術館で行われているが、日本映画としては初の例である。

 

 

瀧の白糸[1](たきのしらいと)は、泉鏡花の小説「義血侠血」を原作とする新派劇[2]および映画テレビドラマオペラである。1956年までに映画では6作品が製作された。

 

水芸人「瀧の白糸(本名:水島友)」は旅座仲間の南京出刃打(なんきんでばうち)の寅吉一座とことごとく対立していた。危機を救ってくれたのが高岡乗合馬車の御者として働く村越欣弥だった。そのことを忘れられない白糸は、ある夜、金沢を流れる浅野川に架かる卯辰橋(原作では天神橋)で欣弥と再会した。欣弥が金のために学問を断念したことを知った白糸は、自分が仕送りをすることを約束し、欣弥を支援する。欣弥への仕送りはしばらく続くが、人気の低迷とともにそれもままならなくなり、また芸人仲間の若い連れを駆け落ちさせるなどして南京出刃打の恨みを買う。白糸は一座のために高利貸しの岩淵から金を借りたが、300円を持って帰るときに南京にそれを強奪される。岩淵と南京がグルであることを責めようと白糸が岩淵を訪れたところ、誤って岩淵を刺し殺してしまう。白糸は勉学に励む欣弥の元を訪れるがあえなく逮捕。検事は学業を終えて初めて検事席に立つ欣弥であった。拘置所を訪れる欣弥に白糸は正直に裁いて欲しいと懇願し、法廷で切々と真実の大切さを説く欣弥の言葉に白糸は凶行を自白し、舌を噛んで自殺する。その後を追うように欣弥もピストルで己が命を絶ったのであった。

 

入江たか子 - Wikipedia

入江 たか子

東京市四谷区(現・新宿区)に生まれる。子爵東坊城家菅原氏)の出身で父の東坊城徳長子爵貴族院議員。生母は北村キミで、徳長の庶子として生まれる[1]1922年大正11年)、その父が亡くなり生活に困窮するも文化学院中学部に入学。油絵を習っていたが、関東大震災で家は半壊し、手放さなければならなくなった。

 

1932年昭和7年)、新興キネマと提携して映画製作会社入江ぷろだくしょんを創立。当時、阪東妻三郎などスター男優が次々と独立プロダクションを作っていたが、女優の独立プロも現代劇の独立プロも「入江ぷろ」が初めてであった。この時代、入江たか子は日本映画界最高の位置にあった。その第1作は溝口健二監督、中野英治共演による『満蒙建国の黎明』だった。この作品は満州建国を背景に川島芳子からヒントを得た超大作で海外ロケを行い、半年の製作日数をかけた大々的なものだった。

この後、日活の俳優、田村道美と結婚し、のちに田村はたか子のマネージャープロデューサーとなる。田村が自らの人気を考えて結婚を公表せず、も入れない別居生活であったため、兄の恭長は田村を嫌い、映画界を辞める。結婚10年後に子供が生まれ、これを機に法的にも結婚する。

1933年昭和8年)、泉鏡花の名作『滝の白糸』をまた溝口監督で撮り、大好評となる。ところが、溝口は一女優の入江ぷろだくしょん作品の監督ということに屈辱を感じていたため、強引に実体のない名前だけの「溝口プロダクション」という名前をその横に列記させてもらい体面を保っていた。

「滝の白糸」1933年入江たか子(右)と浦辺粂子(左)
「滝の白糸」1933年岡田時彦(左)と入江たか子

続いて、サナトリウム(療養所)に勤務する美貌の看護師を演じた、久米正雄原作の『月よりの使者』が空前の大ヒットとなる。1935年昭和10年)頃は人気の絶頂にあり、この年のマルベル堂プロマイドの売り上げでは、1位が入江たか子、2位が田中絹代であった。しかし、1937年昭和12年)に吉屋信子の人気小説を映画化した『良人の貞操』のヒットを限りに「入江ぷろだくしょん」は解散、東宝と契約。

 

 

この映画、満洲建国のプロパガンダに利用されてる。

そもそも、原作の新聞小説の頃から既に意図されてる。

 

 

義血侠血 - Wikipedia 

1894年に出された泉鏡花小説読売新聞1894年11月1日号-11月30日号

    ↓

村田宏寿(南京出刃打)
辮髪 に対する画像結果 演者とは違うけど、こいつの髪型が辮髪
    ↓

 

日清戦争 - Wikipedia 1894年明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本清国の間で行われた戦争である。

    

 

第一次世界大戦 - Wikipedia 1914年大正3年)7月28日 - 1918年(大正7年)11月11日[1]

1915年版を映画化

 

満洲事変 - Wikipedia 1931年9月18日 - 1932年2月18日

1933年版を映画化

 

通州事件 - Wikipedia 1937年昭和12年)7月29日午前2時-午前3時[1][2] –

1937年版を映画化

 

1946年版からは南京が消えてる・・・

戦後も作られてるのは仕掛け人に浙江臭さを感じてしまう訳で。

しかも、この黒歴史になりそうなフィルムを世界に向けて発信しているのは、水面下に奴らがいるから。

そう言えば香港からオファー受けて1本撮ってるし。

  楊貴妃(1955年、大映東京ショウ・ブラザーズ

巨匠と持ち上げられるのには理由がある。

 

 

松田コレクションの出所

川喜多かしこ - Wikipedia

川喜多 かしこ(かわきた かしこ、1908年3月21日 - 1993年7月27日)は、昭和期の映画文化活動家。川喜多記念映画文化財団理事長で東和映画の代表[3]

 

1929年の秋に川喜多長政と結婚し、竹内かしこから川喜多かしことなる[5]

1932年に仕事を兼ねた新婚旅行として夫妻でヨーロッパを訪れた際に「新婚旅行のプレゼント」として夫に買い付けを許可された『制服の処女』は、一世を風靡し、1933年度キネマ旬報ベスト・テンの第1位に選ばれた[7]。ほかにも、『自由を我らに』、『望郷』、『どん底』、『民族の祭典』などの名作を日本に輸入した[4]

1953年に15年ぶりにヨーロッパを訪れた際には、1953年度キネマ旬報ベスト・テンの第1位となった『禁じられた遊び』を輸入した[7]

1960年フィルム・ライブラリー助成協議会をつくり、当時日本映画製作者連盟のトップだった大映永田雅一を会長に据え、本人は専務理事として、日本に国立のフィルム・アーカイブを設立させる運動の指揮をとった。この活動は、岩波ホールの総支配人の高野悦子と共に、世界の埋もれた名画を世に紹介し、古今東西の名画の収集保存を行う活動「エキプ・ド・シネマ」へとつながっていく[8]

1963年にパリのシネマテークで行った日本映画大回顧展で上映した映画のうち131本は、東京国立近代美術館に寄贈され、日本で発足した最初のフィルム・アーカイブの所蔵作品となった[8]